2009年6月21日 (日)

感想(仁徳第三十五・微明第三十六・爲政第三十七・論徳第三十八)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 道は淡々としたもの
美しい音楽やおいしい食事には行き過ぎた人も戻ってくる。でも「道」は音楽や食事のようにおいしかったり、美しく聞こえたりはしない。道は淡々としたもの。でも実は、淡い味は一番の美味。道を用いれば無限。ほどほどが最上と知る。うんといいと悪い方にも行くから、中庸を心がける。

2. 反対をやる
何か欲しいと思ったら、何かをすてると得られる。反対をやるといい結果が出る。だったら自分からそれをやればいい。それが生きてゆくコツ。

3. 10年続ける
AもあればBもあるといった、柔弱、多様性を認めるリーダーでないとこれからはダメ。そうなれるためには謙虚さ、寛容さが必要だが、そうなるためには自己の確立が必要。自分に自信が持てるとできるようになる。
儒学者の佐藤一斎は、「一灯を下げて暗夜を行く、暗夜を憂うることなかれ、ただ一灯を頼め」と言ったが、「一灯(いっと)」とは「私にはこれがある」と思えるもののこと。世界広しといえど、これは私しかないというものをひとつでいいから持つ。石の上にも3年というが、10年も続けたら3年の3倍。オンリーワンを持つこと。

4. 「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く
無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、道は何もしていないように見えるけど、為さざるは無し(できないことは無い)。これは老荘思想、老子のすごいところ。道のありようは、「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く。
自分の人生のテーマはいつも持っていて、すぐやろうと思わない。長期的な目標は、何となく持つのが生き方のコツ。不可能と思っても、無為になれば、為さざるは無し(できないことは無い)。

5. 嫌なことも、ありがたいと思えば卒業
嫌なことが来ないように祈るのはダメ。嫌なこと来い、もう嫌なことは無いという人生じゃないと。うんと嫌や奴に会うとか。ひどいことを早く経験した方が、後は極楽。嫌なこと、嫌な奴は貴重。嫌だと思っている間は消化していない。ありがたいと思えば卒業。

■感想
道は美しい音楽やおいしい食事のように、行き過ぎた人でもそのために戻ってくるような、分かりやすい華やかなものではなく、つい見過ごしてしまいそうな淡々とした素朴なものという説明に、なるほどなと思います。

無為であること、無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、何もしていないように見えるけど、実は道の力でできないことは無いという老子の教えは、これから生きていく上でずっと覚えておこうと思います。

窈窕会の始まった2007年9月頃の自分のブログの文章を読むと、ちょうどシティバンクに入社して1年が経過し、仕事も増えて、私はそのことに随分苦しんでいたようでした。会社で認められることは、分かりやすい華やかなことかと思いますが、私が望んでいたのはそれよりも、自分の人生を自分の望むように淡々と素朴に、どうということなく生きることであったように思います。

「石の上にも3年」と言いますが、早いものでシティバンクに入社してもうすぐ3年になります。嫌なことは、来ないように願ってもムダなことで、わーわーした徼の世界も、存在するんだから、そこで人がどのように行動しているか、ちゃんと見ておけと道に言われているような気がします。ずっとこの世界にいなくてもいいかもしれませんが、美しい妙の世界も、混沌と喧騒の徼の世界も、両方知って「AもあればBもある」といった多様性を受容できる人間になる方が確かにいいように思います。

一方で自分がやりたいと思うこと、自分のテーマはいつもぼんやり素朴に持って、長く思い続けて少しづつ行動しようと思いました。

論徳第三十八

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲而無以爲。下徳爲之而有以爲。上仁爲之而無以爲。上義爲之而有以爲。上禮爲之而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫處其厚不居其薄、處其實不居其華。故去彼取此。
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上徳(じょうとく)は徳とせず、ここをもって徳あり。下徳(かとく)は徳を失はざらんとす、ここをもって徳なし。上徳は無為(むい)にして、もって爲せりとする無し。下徳はこれをなして、もって爲せりとするあり。上仁(じょうじん)はこれをなして、もって爲せりとする無し。上義(じょうぎ)はこれをなして、もって爲せりとするあり。上礼(じょうれい)はこれをなして、これに応ずるなければ、すなわち臂(ひじ)を攘(ひ)いてこれに扔(よ)らしむ。故に道を失いてのち徳、徳を失いてのち仁(じん)、仁を失いてのち義、義を失いてのち礼(れい)あり。それ礼は忠信の薄(はく)にして乱の首(はじめ)なり。前識者は、道の華(か)にして、愚の始なり。ここをもって大丈夫は、その厚に処(お)りてその薄きに居らず。その実に処(お)りて、その華に居(お)らず。故にかれを去(さ)りてこれを取(と)る。
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徳→仁→義→礼の順番が人間の順番。処世訓、仁を最高とする儒教を、道家が批判している章でもある。

上徳(いちばん徳のある、りっぱな人)は、自分が徳があるとは思っていない。下徳の人は徳を失わないようにしているから、徳は無い。上徳の人は、無為だから、何とかしれやろいうということは無い。下徳の人は「やってやろう」というわざとらしい感じ。上仁は何かして、有為でやるけど、わざとらしいということは無い。上義はやったら、「やった、やった」とわざとらしい。上礼は何かして、徳のある振る舞いをしたのに、誰も徳があると言ってくれなければ、「何で」と押し付けがましい。

信じられることが薄いと礼が言われる。情報を人より早く得ている、評論家みたいな人はあだ華で、愚かの始め。大丈夫は徳が厚く、実質的で、あだ華には居ない。だから礼や知を去って、道を取る。

▼ 理想的なチームにはルールは無い。就業規則無いと守らないとかは、嘆かわしい状況。プロの世界は決まりが無い。気が読める、心が読めるのがプロで、玄人。会社は規則づくめになっている。

▼ 「心に欲するところに従えども則を越えず」が立派な人間。

▼ 朝礼を止めたいという会社が多いというが、非礼・無礼でいいのか。「天道健やかなり」と言って、天の働きは健やかで秩序立っている。夜が来て朝が来て、新鮮さを取り戻す。その運行に学ぶ精神を礼という。

挨拶はなぜ必要か。点呼は、人員がそろっているか確かめること。挨拶は、「私生きています」という宣言。

爲政第三十七

道常無爲而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之朴、亦將不欲。不欲以靜、天下將自定。
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道は常に無為なれども、而(しか)も爲(な)さざる無し。侯王もしよくこれを守らば、万物まさにおのずから化せんとす。化して欲作(おこ)らば、われまさにこれを鎮(しず)むるに無名の朴(ぼく)をもってせんとす。無名の朴もてせば、またまさに欲せざらん。欲せずしてもって静かなれば、天下まさにおのずから定(さだ)まらんとす。
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無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、道は何もしていないように見えるけど、為さざるは無し(できないことは無い)。これは老荘思想、老子のすごいところ。道のありようは、「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く。

物事が発展すると、「もっと良くしよう」と欲が起きるけど、その欲にブレーキをかけるには、最初を思い出す(朴:山から切りたての材木、切り出したての木)。自分がポジションについていたとしても、最初からそうだったか自問する。最初はただひたすら下っ端で働いていた新人だった、そのことを思えば、ここまで来たことを十分と思う。

冷静になればなるほど世の中の流れが分かるから、いろんなことが定まってゆく。
冷静に見る。恵まれない時とか、よくない時を思って変な欲は鎮める。そうすると、これでいいじゃないかと思える。大病してもうかえって来れないと感じた時があれば、生きているだけで100点と思う。

▼ リラックスしているときにいちばん力が出る。野球で打つときもそう。

▼ 自分の人生のテーマはいつも持っていて、すぐやろうと思わない。長期的な目標は、何となく持つのが生き方のコツ。不可能と思っても、無為になれば、為さざるは無し(できないことは無い)。

▼ この世のものは全て生成化育している。あなたが手を下さなくても、そうなる。ほっといた方がいいことが多い。

変化はこの世の必然。世の中は猛烈に動いている。それをどう利用するか、動いている方向へ、方向へと行く。資本主義がどうかと思えば東洋思想に向くとか、その変化をピックアップする。

▼ 意欲も欲望だから、否定はしないけど、ブレーキは必要。

▼ 面白いものは難しい。難しいものが面白い。だから難しいを楽しむ。いきなり楽しむのは難しいから、日常の訓練が大切。エベレストに登ろうと思って富士山に登れば簡単。大きな目標を持つ。富士山が目標なら、富士山に登るのは大変。

自分に向いた気の持ち様を発見するのが生きるコツ。だんだん楽に、面白くなるように訓練する。仕事の訓練ではなく、生き方の訓練。江戸時代は生き方を教えていたからすごい。

嫌なことが来ないように祈るのはダメ。嫌なこと来い、もう嫌なことは無いという人生じゃないと。うんと嫌や奴に会うとか。ひどいことを早く経験した方が、後は極楽。嫌なこと、嫌な奴は貴重。嫌だと思っている間は消化していない。ありがたいと思えば卒業。

2009年3月 1日 (日)

微明第三十六

將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
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まさにこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱めんと欲すれば、必ず固くこれを強くす。まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)す。まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれに与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つ。魚は淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。
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腕力・権力はもろいもの。鉄板の剛強と柳の柔弱さと、どちらが強いか。柳は相手にしようがない。フレキシビリティーが必要。やわらかさは命。赤ちゃんは柔らかく、年をとると体は固くなる。

柔らかさには、やりすぎ、力づくはない。勢いよく飛び跳ねるようなことはしない(魚は淵より脱すべからず)。権力は人に示すものではない。力にが限界がある。やわらかさには限界が無いから長続きする。

何か欲しいと思ったら、何かをすてると得られる。反対をやるといい結果が出る。だったら自分からそれをやればいい。それが生きてゆくコツ。

▼ AもあればBもあるといった、柔弱、多様性を認めるリーダーでないとこれからはダメ。そうなれるためには謙虚さ、寛容さが必要だが、そうなるためには自己の確立が必要。自分に自信が持てるとできるようになる。

儒学者の佐藤一斎は、「一灯を下げて暗夜を行く、暗夜を憂うることなかれ、ただ一灯を頼め」と言ったが、「一灯(いっと)」とは「私にはこれがある」と思えるもののこと。世界広しといえど、これは私しかないというものをひとつでいいから持つ。石の上にも3年というが、10年も続けたら3年の3倍。オンリーワンを持つこと。

仁徳第三十五

執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出口、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。
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大象(だいしょう)を執(と)りて、天下に往(ゆ)く。往きて害せず、安平太(あんぺいたい)なり。楽(がく)と餌(じ)とは、過客(かかく)止まる。道の口より出(い)ずるは、淡としてそれ味なし。これを視(み)れども見るに足らず。これを聴(き)けども聞くに足らず。これを用うれども既(つく)すべからず。
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道とすっかり表裏一体になって人生を行けば、どういう所へ行っても危害を与えられることがない。

大胆不敵は、危険極まりない、こわいこと。細心に、臆病に生きる。「与(よ)として冬川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として四隣(しりん)を畏(おそ)るるがごとし」と言うように、氷の張った冬の川を、片足で氷をたたいて確かめながら、疑い深くわたってゆくような慎重さと、周りを恐れ、何が飛び出してくるか分からないとびくびくするような用心深さが必要。そうすると危害を被らない。

数日必要なものしか持たないから、盗られるものもないから、心の負担が無い(=安平太・あんぺいたい)。ただ平穏無事じゃなくて、心の不安が無い。財産は生命を傷つける。誰かにとられるんじゃないかとか、心配しないといけなくなる。

美しい音楽やおいしい食事には行き過ぎた人も戻ってくる。でも「道」は音楽や食事のようにおいしかったり、美しく聞こえたりはしない。道は淡々としたもの。でも実は、淡い味は一番の美味。道を用いれば無限。

▼ 素人は大胆不敵。玄人は何でも慎重。例えばシェルパとか。何が危険か良く知っている。

▼ 一杯目のお茶には、甘み、二杯目は苦味、三杯目は渋み、四杯目は淡として味なしだが、実は甘いも苦いも渋いも感じられる。人も同じ。淡として味なしには実はいろいろな味がある。それが気がつけるのは幸せ。水のおいしさとか。

▼ ほどほどが最上と知る。うんといいと悪い方にも行くから、中庸を心がける。

2009年について

田口先生に、2009年はどんな年か教えていただいた。

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今年は改革の年。筋を通すとき。「義」の年。
義は「犠牲」で、「犠牲」の「犠」も「牲」も「いけにえ」という意味。自分をかえりみず、他者のために働く。

去年は爆発の年だった。発展、拡大もあったけど、弊害もあったので正さないといけない。今年と来年で正さないとその次が大変なことになる。ここ2年が正念場。2年かけて人間として健全な方向へ行かないと。

2009年は、ねじれをまっすぐ正す年。

自分の社会的役割を考えてやる。正さないと2011年がえらいことに。

2009年1月 1日 (木)

2009年

(中国古典を教えていただいている田口先生に書いたメール)

毎年元旦には、本などで読んだ好きなことばを振り返ったりしながら、その1年をどんな風に過ごしたいか考えます。勉強会の記録を記した自分のブログを振り返ってみると、田口先生に中国古典を教えていただくようになってもう1年以上が経つことが分かり(2007年9月から教えていただいているようでした)、その記録をずっと読み返していました。

それで今年は、これまで先生に教えていただいたこと、去年自分で経験して学習したことも踏まえて、以下のようにできたらいいなあと感じました。

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1. 見守る
大人になることは見守ること(=我慢)ができるようになること。見守るというのは何もしないことではない。よちよち歩きの子を見ているような緊張感のあるもの。見守っていると、「自ずと然り」と全部決まる。

無為は流れを見守ること。自分の閉鎖的なところを開く勇気を持って。そうすると見えてくるから、既成概念でものを見ない。気がつかないだけで、底流ではいつも流れがあるから見守る。そうすると落ち着くところに落ち着く。無になって見るとゴールもプロセスも見える。自分の思惑があると対象が見えない。人も仕事も無になって見るとゴールもプロセスも見える。

果実を育てるのに人にできることは見守るだけ。それを忘れないで、全部そういうものと思わないと。ぷーっと吹いて大きくなるんじゃない。

2. 直感的、実感的に感じることを大切にする
決め付けると不自由になるから、そのときに何を感じるかを基本に、それが本質であると知り、それを繰り返して感性で感じて暮らすと、何でも新鮮にものが見られるようになり、それが自由とか、幸福につながっている。

3. 宇宙、自然、天、道の力をとりこむ - 「自ずと然り」というゴールの設定をする
人間の力なんて、大したものじゃない。宇宙、自然、天、道の力をいかにとりこむかが重要。腕ずくには限界がある。自然の流れに上手くチームを乗せる。

「自ずと然り」というゴールの設定をすると、すーっと上手くいく。ある種、道にゆだねるところが無いといけない。道との一体感を本当に信じることができれば、力がわーっと出るとか、そいういう余地がある。おれおれ、自分自分で遊びが無いと自然の力が入り込めない。隙間を残して自然に任せる。ゆだねないと上手くいかない。人は道と融合するとものすごい力が出る。施政者はそれを恐れて、神を人の上に置き、道、天、地、王が全く同じ位置づけだとは教えなかったのかもしれない。

4. 虚心になって働く
複雑なリーダーの本質も、虚心になれば見える。思惑があると本物は相手にできない。達人と対峙するときには無心になること。気に入ってもらおう、評価してもらおう、好きになってもらおうと思わず、無心になって働く。そうするとうんと勉強になり、うんと糧になる。

5. 湛(たん)として存する
存在が説得力を持つのが究極のリーダーシップ。「湛(たん)として存する」とは水が深くたたえられた深い池や湖がそこにあるような、その人がいると何か落ち着くといった感じのこと。「心の落ち着き」は金では買えない。
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去年上手くいかなかったことを振り返っての反省は、見守ること、「自ずと然り」とすることができずに、自分の想定と違うことが起こったことに驚き、不安になって、すぐに解決することを求めたことです。その経験から学んだことは、驚き不安になって、今すぐその状況を変えるために相手や状況を変えようとしても、思うような結果はさっぱり得られず、かえって表面的には人間関係が悪化し、一方で状況は何も変わらず、私の思う解決策は何の役にも立たなかったことでした。

このように相手や状況を今すぐ変えようと思ってしまうと、自分が虚心になって働くことは忘れて、相手の反応や、相手が自分をどう評価しているかばかりが気になり、自分もそれに左右されて、ますます不自由になる点も悪循環でした。

それとは逆に、去年、別に意図したわけではないのに偶然上手く行ったことを考えると、見守って、「自ずと然り」とやっていたように思います。自分の想定と違うこと、自分には好ましくないことが起こっても、なぜそうなるのか、相手や全体的な状況から考えて、「まあ、今はしょうがないか」と、今はこうでもそれは相手にも理由のあることで、将来はもっと上手く行くと相手を信じて前向きに考えていると、その考えを相手に伝えたのでも、約束したのでもないのに、なぜか相手は期待に応えてくれ、状況は期待を超えて好転しました。

また仕事でも、別に主体的な計画や意図は持たず、周囲の状況に合わせて「とりあえずやっとくか」と消極的に参加しただけで、何となく形になっていったものがいくつもありました。仕事には、主体性を持って自分で考えて自分でやるという一面もありますが、特に多くの人と一緒に仕事をしなければいけないときは、自分から「こうすべき」と主張してもあまり結果にはつながらないことが多く、注意して様子を見ていて必要とされた時に要求されたように参加する方が上手くいくようだと学びました。

今年は無心・虚心になって流れを見守りながら、そのとき自分が感じることに従ってまた虚心に働いて、自分や、自分の周囲のいろいろな可能性を拓いてゆけたらいいと思います。

2008年11月・12月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想

(偃武第三十一 ~ 任成第三十四)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 対立を超えるには戦わないで、相手を認める
アーノルド・ミンデルは老子の論法を活用してアイルランド紛争を解決した。対立を超えるには戦わない。相手を認める。欲とかあると相手を忘れるが、そうすると永遠に対立する。人間の持ちうる最後の方法論は「対話」。一緒に食事をするってすごい力。万物斉同。

2. 自分に束縛されているのは気づきにくい
自分に束縛されている人が多い。他人に束縛されるより気づきにくい。

3. 全て人間にとって重要なこと、全ての根源は己の中にある
全て人間にとって重要なこと、全ての根源は己の中にあるのに、人はそれに気づかずに外に回答を求めて迷って悩む。外に求めるのは止めて、自分の内側を見ると答えがある。本当は自分の心の中に全部答えはあるのに迷って悩む。

4. 人は道(根源的なエネルギー)につながっている
人は道(根源的なエネルギー)につながっている。みんな道から生まれてきた。自分を見つめることは、永遠の生命に帰ること。あまり外へ外へ行かない。自分の評判、どう思われているかにエネルギーを使っても、何のために生きているのか分からない。自分を楽しむ。

5. 何かを生み出す、つくりだすのが人間の本質
自分のやっていることに面白さ、喜びを感じているかどうか。やった後の結果は出がらしの茶みたいなもの。結果として賞をとったとか評価されたとか、そういうことではなく、自分の満足を主眼として生きる。黙々と何かをやるのが一番いい。作ること、何かすることの喜びが大切。どう評価されるのかとか、結論を要求しながらやるのは中途半端。他人の評価を気にするのではなく、自分が楽しむ。この世に存在することを楽しむ。何かを生み出す、つくりだすのが人間の本質。

2008年12月14日 (日)

任成第三十四

大道氾兮、其可左右。萬物恃之而生而不辭。功成不名有。愛養萬物而不爲主。常無欲、可名於小。萬物歸之而不爲主、可名爲大。是以聖人、終不自大、故能成其大。
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大道は氾(はん)として、それ左右すべし。万物これを恃(たの)みて生ずれども辞せず。功成りて名を有せず。万物を愛養(あいよう)すれども主とならず。常に無欲、小(しょう)と名づくべし。万物これに帰すれども主(しゅ)とならず、名づけて大となすべし。ここをもって聖人、ついに自(みずか)ら大とせず。故によくその大を成(な)す。
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道はなぜ永遠に存在するのか。永遠に存在するものの要点を教えてくれている。不朽ということ。滅びない。生まれてきたことへの感謝、お返しは、誰かの心の中に生き続けること。そういうものは、全てのことをやっていながら主張しない。道の生き方を自分の生き方にするのが、本当の生き方。

道は、誰がやっているか分からないから小さな存在とも言えるけど、全部道から生まれるから本当は大きな存在。

自分のやっていることに面白さ、喜びを感じているかどうか。やった後の結果は出がらしの茶みたいなもの。結果として賞をとったとか評価されたとか、そういうことではなく、自分の満足を主眼として生きる。

黙々と何かをやるのが一番いい。作ること、何かすることの喜びが大切。どう評価されるのかとか、結論を要求しながらやるのは中途半端。他人の評価を気にするのではなく、自分が楽しむ。

▼ この世に存在することを楽しむ。何かを生み出す、つくりだすのが人間の本質では。

▼ 道徳は、「モラル」だけでは50%。ダイナミックな創造活動の意味もある。なぜモラルのような秩序が必要かというと、それは創造のため。地球は創造にあふれている。動態的で精力的なものがクリエイティビティで、道徳に合っている。創造的に、工夫して、面白く仕事をすることが重要。

辯徳第三十三

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽。
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人を知る者は智(ち)、自(みずか)ら知る者は明(めい)なり。人に勝つ者は力あり、自(みずか)ら勝つ者は強(つよ)し。足るを知る者は富み、強(つと)めて行なう者は志あり。その所を失わざる者は久し。死して亡びざる者は寿(いのちなが)し。
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全て人間にとって重要なこと、全ての根源は己の中にあるのに、人はそれに気づかずに外に回答を求めて迷って悩む。外に求めるのは止めて、自分の内側を見ると答えがある。本当は自分の心の中に全部答えはあるのに迷って悩む。

「人間はこういうもの」と他人を観察して知るのも悪くないけど、意味は無い。そんなことをしても、自分の思い通りに他人を動かせるのではない。他人をコントロールできないということを本当に知るには、自分を見る。どうして自分は他人の言いなりにはならないのかを突き詰めると、どうすれば人が動くか見えてくる。

人を動かす秘訣は自分を見ること。自分を見ると本質が分かる。人ばっか見てても分からない。内省や自省をする。うんとやった方がいい。

昔「経営の神様」とか言われる人が、人の採用基準として、「その人は夜逃げの経験があるか」、「監獄に入ったことはあるか」、「長い病気で入院生活はあるか」という問いにYesなら採用、と言った。理由は、そのような経験をした人は自分しか見るものが無い時間を過ごしているから。吉田松陰とか。人を信頼するときにはこの3つを基準に。

人に勝つ人より自分に勝つ人が強い。自分がいちばんやっかい。

欲望とか本能を抑えて、今あるものに感謝できる人は自分という猛獣使い。「足るを知る者は富む」。不平不満がある人は、まだ自分が抑えこめていない。

自分を見つめることを失わない人は長く安泰。肉体は死んでも存在は死なない。死して朽ちず。克己。自分が見えないと他人は見えない。

人は道(根源的なエネルギー)につながっている。みんな道から生まれてきた。自分を見つめることは、永遠の生命に帰ること。あまり外へ外へ行かない。自分の評判、どう思われているかにエネルギーを使っても、何のために生きているのか分からない。自分を楽しむ。

2008年12月 7日 (日)

聖徳第三十二

道常無名樸。雖小、天下不敢臣。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之與江海。
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道は常に無名の樸(ぼく)なり。小なりといえども、天下あえて臣(しん)とせず。侯王もしよくこれを守れば、万物まさにおのずから賓(ひん)せんとす。天地は相合して、もって甘露(かんろ)を降(くだ)し、民はこれに令することなくしておのずから均(ひと)し。始めて制して名あり。名もまたすでにあれば、それまたまさに止(いた)るところを知らんとす。止(いた)るところを知るは殆(とど)まらざるゆえんなり。譬(たと)えば道の天下に在(あ)るは、なお川谷(せんこく)の江海(こうかい)に与(くみ)するがごとし。
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無名というのは重要なこと。名前があることは理屈、論理があること。それを否定するのが無名。混沌は無限だから。

名前を持つと限定される。有名な人は、会ったこともない他人から「こういう人でしょ」と限定される。無名なら何をしてもいい。すごく可能性がある。有名になることは限定されること。なんで有名になりたいのか。

混沌の凄さ。論理的で整然としていると魅力にとぼしい。

謙虚、世俗的な欲望を持たない、命も地位も金もいらない人間は使いようが無い。ぼくとつな人間はこだわり、飾りが無いから扱いようが無い。欲のある人間からするといかんともしがたい人間。王様がぼくとつとしていれば天下無敵。

今は無名な人にかける時代。アメリカ大統領選とか。ひょっとするとすごい人かも、と思うと部下にしようとは思わない。すごいポジションにいながらそぼくなら凄いこと。理論整然には限界がある。「なんだか分かんない」のはすごい人。未完の大器。

荒木のままだったらどうなるか分からないけど、何かになっちゃったら、それはそれ。コップはコップ。いつも余力を持って何になるか分からずに生きているのは凄いこと。

名前を持つものの限界は覚悟せざるを得ない。名前があれば危うさは無い。

▼ 万物が帰り行くのは道。それを前提にするのが重要。見えない、聞こえない、触れないのが道。見える、聞こえる、触れるものは道から遠い。

▼ 人は出生と入滅によって無の世界と有の世界を出入りしている。無の世界が見える人間=玄人にならないと。無の世界くらい面白いものはない。

▼ 自分に束縛されている人が多い。他人に束縛されるより気づきにくい。

偃武第三十一

夫佳兵者不祥之器、物或惡之。故有道者不處。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器、不得已而用之、恬惔爲上。勝而不美。而美之者、是樂殺人。夫樂殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏將軍居左、上將軍居右。言以喪禮處之。殺人之衆、以悲哀泣之、戰勝以喪禮處之。
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それ佳兵(かへい)は不祥の器。物これを悪(にく)むことあり。故(ゆえ)に有道の者(もの)は処(お)らず。君子(くんし)居(お)ればすなわち左(ひだり)を貴び、兵を用(もち)うればすなわち右(みぎ)を貴ぶ。兵は不祥の器にして、君子(くんし)の器にあらず。已(や)むを得ずしてこれを用(もち)うれば、恬惔(てんたん)を上となす。勝ちて美とせず。而(しか)るにこれを美とする者(もの)は、これ人(ひと)を殺(ころ)すを楽(たの)しむなり。それ人(ひと)を殺(ころ)すを楽(たの)しむ者(もの)は、すなわちもって志を天下(てんか)に得べからず。吉事(きつじ)には左を尚(たっと)び、凶事には右を尚ぶ。偏(へん)将軍(しょうぐん)は左に居り、上(じょう)将軍(しょうぐん)は右に居(お)る。喪礼(そうれい)をもってこれに処(お)るを言(い)う。人(ひと)を殺(ころ)すことの衆(おお)ければ、悲哀(ひあい)をもってこれを泣(な)き、戦(たたか)い勝ちて喪礼をもってこれに処(お)る。
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老子と戦争は対極でなじまない。でも老子の思想は550年続く春秋戦国時代のさ中に生まれた。五経とかも同じ。それをまず理解した方がいい。

戦争があると、人生計画とかあっても全部ずたずたになる。戦争はなぜ生まれるかといういと、文明から起こる。文明は便利になること。田舎は不便。便利になると技術が生まれる。そうすると持っている人と持っていない人の区分を生んで闘争、戦争になる。文明は戦争の危険をはらんでいる。文明の恩恵を受けて戦争を否定するのは矛盾。

優秀は兵隊は不吉。万物はこれを憎む。道を愛する者は軍とかに近寄らない。弓を引くときは右だから、「兵を用(もち)うればすなわち右(みぎ)を貴ぶ」。お祝い事は左を尊ぶ。凶事は右が社会的慣例。軍は不吉だから、軍隊の並び方は葬式の並び方と同じ。

やむを得ず戦うときもあっさりと。あんまり凝らない。勝利の美酒に酔うなんてとんでもない。戦争の勇者は人を殺した自覚をなくしやすい。人を犠牲にする方向は志とは逆。戦争に勝っても泣かないといけない。勝っても葬式のように。

▼ いいものはオープンにする発想にならないと。LINAXとか。

▼ アーノルド・ミンデルは老子の論法を活用してアイルランド紛争を解決した。対立を超えるには戦わない。相手を認める。欲とかあると相手を忘れるが、そうすると永遠に対立する。人間の持ちうる最後の方法論は「対話」。一緒に食事をするってすごい力。万物斉同。

▼ 腕ずく最たるものが軍隊。だからそういう発想を持たない。

2008年11月 3日 (月)

2008年10月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想 (無爲第二十九・儉武第三十)

■とても興味深く、役立ったこと
1. この世は神が動かしている
天下が取れるのはひどくめずらしいこと。会社で自分の部を持ったら思い通りにしようと思うのは大間違い。それだと上手く行ったのを見たこと無い。この世は神が動かしている。一個人が動かすことはあり得ない。人は自然にひれ伏すくらいでないと。おさめようとしても失敗する。執着すれば失う。

2. 自分と自然の空気との合作がいい
赤ちゃんを抱くときは力を入れても、入れなくてもダメで、ほどよくしないと。自分と自然の空気との合作がいい。力が入れば入るほど失う。

3. 自然の力を活用するには「甚(はなは)だしきを去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る」
自然の力は人間の力の比ではない。これを活用するとすごく上手く行く。活用するコツは、何でもほどよくすること。「甚(はなは)だしきを去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る」のがいい。微妙だから、荒っぽくしたらダメ。

4. 果実を育てるのに人にできることは見守るだけ
果実を育てるのに人にできることは見守るだけ。それを忘れないで、全部そういうものと思わないと。ぷーっと吹いて大きくなるんじゃない。

5. 果実がたくさんできても、自分がやったんじゃないから誇らない
本当に善なるものは、自然の力、神の力で果実はできたと考えるから、虫を取ったりはするけど、そのものには手はふれない。こどもには「早くしてー」だとダメ。見守ってやるといい。強引にやらない。果実がたくさんできても、自分がやったんじゃないから誇らない。

■感想
この勉強会を通して、ずっと無心になって対象を見るとゴールもプロセスも見えること、自分の思惑にこだわったり、執着するとかえってそれは成就はしないこと、それよりは周囲の人やものをよく見て理解し、状況にあわせて自然の流れに乗ると最大の効果が出ることを教えていただいてきたと思います。

とかく小さなことでも、自分の思い通りにならないと、つまらないと感じたりしてものごとに注意散漫になりますが、私が注意散漫になっている間にも、実は小さなことのひとつひとつにも果実が実る準備が、自然の中には確かにあるのかもしれません。自分の思い通りか、そうでないかにこだわるよりも、小さなことひとつひとつのことの中に成るかもしれない果実の可能性を見守れるようになる方が、人生に充実感を感じられるようになるのかもしれません。

先日、それほど思い入れてやっていたわけでもなく、言われたからただ淡々とやっていた仕事について、思いがけず「ここまでできたなあ」などとふと感慨と達成感のようなものを感じたことに、自分でもとても驚きました。別に私が何か一生懸命やったというよりは、全体の流れの中で、形の無いものがなんとなく形になってきただけのことで、私は(そんなにやる気のある仕事でも無かったので思惑なども無く)まさに見守っていたら、勝手にちいさな果実が実ったように感じて驚きました。それでも私は何となく嬉しく、もしかしてこれは、仕事についての結構重要な発見ではないかと感じました。

2008年10月13日 (月)

儉武第三十

以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所處、荊棘生焉。大軍之後、必有凶年。善者果而已。不敢以取強。果而勿矜。果而勿伐。果而勿驕。果而不得已。果而勿強。物壯則老、是謂不道、不道早已。
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道をもって人主を佐(たす)くる者は、兵をもって天下に強くせず。その事好く還る。師の処(お)る所には、荊棘(けいきょく)生ず。大軍の後には、必ず凶年あり。善なる者は果なるのみ。あえてもって強を取らず。果にして矜(ほこ)る勿(な)かれ、果にして伐(ほこ)る勿(な)かれ、果にして驕(おご)る勿(な)かれ、果にして已むを得ざれ、果にして強なる勿(な)かれ。物壮(さかん)なればすなわち老ゆ。これを不道と謂う。不道なれば早く已(や)む。
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果実を育てるのに人にできることは見守るだけ。それを忘れないで、全部そういうものと思わないと。ぷーっと吹いて大きくなるんじゃない。

道の働きで自分の主人を助けるのに、「腕ずく」はしない。力づくは必ずその報いが返る。大軍がいた後は田畑も荒れて凶年になってしまう。何とか力づくでやってもその後の報いがひどい。孫子の兵法は戦わずして勝つのがいい。相手の街を焼き尽くし、勝ったら占領しないといけないから、復興作業が必要ですごくお金がかかる。力づくだと、勝ってもやっかい。

本当に善なるものは、自然の力、神の力で果実はできたと考えるから、虫を取ったりはするけど、そのものには手はふれない。こどもには「早くしてー」だとダメ。見守ってやるといい。強引にやらない。果実がたくさんできても、自分がやったんじゃないから誇らない。

江戸は神社の街。稲荷神社、熊野神社が多い。いなり=「稲なり」で、農作業は神人共作と考えられていた。神の力を得たいなら、田畑や家をきれいにしないと、神が降りてこない。力づくで何かしようとしてもダメ。それをしようとすればするほど老いる。自然の力を活かさないのは道に外れているから早く滅びる。

▼人間は自分の中に自然を持っているからそれを大切に。「こうならないといけない、でもなれない」という矛盾に人間は苦しむ。「自ずと然り」とこどもに教えることが大切。病気のもとはみんなこの矛盾。

▼ちゃんと話をするのは重要。教師の集まりで、こどもに「ババア」と言われた教師がどうすればいいか相談したところ、経験の豊かな教師は、静かなところで、その子とふたりきりのといに、「自分はあなたにババアと言われて、本当に悲しい」とちゃんと話せとアドバイスしていた。会社でも10回に1回は言ってもいいかも。

無爲第二十九

將欲取天下而爲之、吾見不得已。天下神器。不可爲也。爲者敗之、執者失之。故物或行或隨、或呴或吹。或強或羸、或載或隳。是以聖人、去甚、去奢、去泰。
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天下を取りてこれを爲(をさ)めんと將欲(しょうよく)するは、われその得ざるを見るのみ。天下は神器、なすべからざるなり。爲(をさ)むる者はこれを敗り、執(と)る者はこれを失う。故に物あるいは行きあるいは随(したが)う。あるいは呴(く)しあるいは吹(ふ)く。あるいは強めあるいは羸(よわ)む。あるいは載せあるいは隳(おと)す。ここをもって聖人は、甚(はなは)だしきを去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る。
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力ずくとか腕ずくとかはいかに危険か悟れ。戦後の日本の価値観は、「力いっぱいやる」とか腕力を評価しすぎ。それだとある所までは行くけど成就はしない。

「こうせい、ああせい」も10のうち5ならできる。でも10はできない。それは自然に反するから。人の力の及ぶところはちょっとで、自然の力がほとんど。努力はした方がいいけど、自然の力を呼び込むような努力をする。

天下が取れるのはひどくめずらしいこと。会社で自分の部を持ったら思い通りにしようと思うのは大間違い。それだと上手く行ったのを見たこと無い。この世は神が動かしている。一個人が動かすことはあり得ない。人は自然にひれ伏すくらいでないと。おさめようとしても失敗する。執着すれば失う。

自分が上司だから部下を思い通りにしようと思えば思うほどダメ。部下は態度に表さなくても心は離れてゆく。前へ前へと思うほど遅れる。手をあたためようと息を吹きかけすぎると逆に寒い。強くしようと思うと弱くなる。載せようとすると落ちる。それは自然の力を活用していないから。

赤ちゃんを抱くときは力を入れても、入れなくてもダメで、ほどよくしないと。自分と自然の空気との合作がいい。力が入れば入るほど失う。

自然の力は人間の力の比ではない。これを活用するとすごく上手く行く。活用するコツは、何でもほどよくすること。「甚(はなは)だしきを去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る」のがいい。微妙だから、荒っぽくしたらダメ。

▼名人は自然の力の活用が上手い。武道、柔道は「空気投げ」とかある。小さな人が大きな人を投げ飛ばせる。現代人は自然の力の活用が眼中に無い。できるようになっているのにやらないで、力づくでやろうとする。

▼人間は微妙にできている。楽器だってガラス工芸だって微妙だけど、人間が一番微妙。気をよむことは立ち向かわない。いなす、かわす、やりすごす、受け止めない方がいい時もある。何回か失敗すると分かる。失敗を重ねた後に微妙な扱い方が分かって面白くなる。

2008年9月22日 (月)

2008年9月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想

■とても興味深く、役立ったこと
1. 用いようとする人やものをよく見て理解するのが達人のやり方
用いようとする人やものをよく見て理解すれば無理強いが無い。状況にあわせて自然の流れに乗る。会議、会社、社会には流れがあるから利用する。それだと軽くやっても最大の効果が出る。達人のやり方。これからやろうとすることの特質を見る。人を使うならその人の個性を見る。そうすると上手く動くようになる。

2. 直観力(要妙・ようみょう)を磨く
自分の思惑で動かそうとしてもダメで、今の状況に自分の思惑をどう乗せるか。観察眼があると分かる。

3. 無になって見るとゴールもプロセスも見える
自分の思惑があると対象が見えない。人も仕事も無になって見るとゴールもプロセスも見える。こざかしい智恵(=明)を持つと上手く行かない。だから、こざかしい智恵は覆いかぶせてしまえ(=襲明・しゅうめい)。

4. 社会・世間とは何か、人とはどんなものかに精通させるのがプロを育てること
プロとは玄人のことで、くらいところが見えること。普通の人では見えないことが見えるようにならないとダメ。今の会社はそういう能力を高める研修とか指導をしない。江戸時代には、社会を知る、世間とは何か、人とはどんなものか、に精通させていた。

5. 必須能力を上げて絶対自由の境地に近づく
年をとればとるほど、絶対自由の境地に近づいて便利にならないと。環境がそうなるのではない。自分がそうなる。でも今の日本のような人の扱いではダメ。人生の達人にならないと。職業は愉快になる手段で、自分を不自由から自由にする手段。偉くなるとかではない。世の中の真理をはかる手段としてやる。仕事もスポーツも同じで、楽しくないと成果が上がらない。ただし楽しくしたり成果を上げるには、まず必須能力を上げないと。勝てると面白くなる。鬼コーチの夏合宿があると能力が上がる。有無を言わせず厳しく鬼コーチが基礎を授ける。基礎が無いままの部下を叱っても成果は上がらない。でも本当は鬼コーチ頼みではなく、自分でやらないと。

6. 命は支えあっている
人間の社会は「生き抜く」こと。人の命は他の命に支えられている。人はひとりになると生命の危機を感じる。仕事を一緒にする人たちは生命を支えあっている。仕事の話をしに来ることは、その人の命が来ること。命は自己主張をするとき喜ぶ。

7. いいことも悪いこともあることを前提とする
俗世間ではみんないいことが続くことを願うけど、そんなことあり得ない。一歩引いてみると、いいことも悪いこともある方が人生が楽しめる。両方あることを知り、悪いと思っている方を前提として、「このていどならいいか」と暮らさないと。嫌なことを嫌だと言うほど偏りのある人生に。この世は両方ある。

7. 「今ここで」が一番重要
生きているだけで100点。生命を維持しているだけで、誰かの助けになっている。そのときそのときに一番恵まれた状態にいると思って感謝する。人間には必然があって、一番いいことが起こる。そう思うのは心の状態。「今ここで」が一番重要。それを、「あそこに行けば」、「明日になれば」とか思うのは下手な生き方。今一点に集中すると時間が止まるように見えてくる。

■感想
仕事を、偉くなるためにやっているとすると、私などは「別に偉くならなくても困りませんけど」と速攻口答えをしたくなり、人の上に立ってもっとお給料をもらうことに本当にそれほど興味が持てないので、自分としても行き詰りますが、一緒に仕事をする人と命を支えあいながら、絶対自由の境地に近づいてもっと自由に生きるため、世の中の真理をはかる手段としてやるとすると、全く違った視点が開ける気がします。

そうだとすると、効率良く・早く何かをしようとか、いつまでにとか、やり方に固執するよりは、一緒にやる人の反応とか、流れを見た方がいいだろいうという感じがして、物事が一見無駄とも思われるような紆余曲折を経てしか進まないことにも、それなりにおつきあいしてみたり、見守ることができるような気がします。

2008年9月15日 (月)

反朴第二十八

知其雄、守其雌、爲天下谿。爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。知其白、守其黒、爲天下式。爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。知其榮、守其辱、爲天下谷。爲天下谷、常徳乃足、復歸於樸。樸散則爲器。聖人用之、則爲官長。故大制不割。
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その雄を知りて、その雌を守れば、天下の谿(たに)となる。天下の谿となれば、常徳(じょうとく)離れずして、嬰児(えいじ)に復帰す。その白きを知りて、その黒きを守れば、天下の式となる。天下の式となれば、常徳忒(あらた)まらずして、無極に復帰す。その栄を知りて、その辱を守れば、天下の谷(たに)となる。天下の谷となれば、常徳すなわち足りて、樸(ぼく)に復帰す。樸散(さん)ずればすなわち器となる。聖人これを用うれば、すなわち官長となす。故に大制は割(さ)かざるなり。
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俗世間ではみんないいことが続くことを願うけど、そんなことあり得ない。一歩引いてみると、いいことも悪いこともある方が人生が楽しめる。両方あることを知り、悪いと思っている方を前提として、「このていどならいいか」と暮らさないと。嫌なことを嫌だと言うほど偏りのある人生に。この世は両方ある。

最初から社長、天才なら後は下るしかない。だんだん上がってゆくのがいちばんいい。俗世間でいいことをいいことと思っているのはたいがいに。

「いいことは来い、悪いことは向こうへ」、「いいこともあれば、悪いこともある」とかも思わない方がいい。嬰児(えいじ)、無極(=道に戻ること)、樸(ぼく=切り出したままの木)に戻れということは、何の思惑も無い無心に帰れということ。

生きているだけで100点。生命を維持しているだけで、誰かの助けになっている。そのときそのときに一番恵まれた状態にいると思って感謝する。人間には必然があって、一番いいことが起こる。そう思うのは心の状態。

「今ここで」が一番重要。それを、「あそこに行けば」、「明日になれば」とか思うのは下手な生き方。今一点に集中すると時間が止まるように見えてくる。

▼ 「樸散(さん)ずればすなわち器となる」は、切り出したままの木を割って器にするという意味で、器になった木の飾りや技巧をよしとする文明の価値観。組織でも、人工的なものがいいと思っているけど、変に作らずに人間主体がいい。

▼ 「嬰児(えいじ)に復帰す」は赤ちゃんに戻るという意味で、純粋無垢の、感動する心を取り戻した方が、生き生き暮らせる。夜はずっと続くのではない。寝て起きると朝になっていて、新鮮さを供給されている。感動くらい楽しいことはない。

▼ 「大制は割(さ)かざるなり」は、偉大な制は分割しないということ。白黒とか善悪とかを分割しない。

2008年9月14日 (日)

巧用第二十七

善行無轍迹。善言無瑕讁。善計不用籌策。善閉無關楗、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人。故無棄人。常善救物。故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資。雖智大迷。是謂要妙。
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善(よ)く行くものには轍迹(てっせき)なく、善く言うものは瑕讁(かたく)なし。善く計るものは籌索(ちゅうさく)を用いず、善く閉ざすものは関楗(かんけん)なくして開くべからず、善く結ぶものは縄約(じょうやく)なくして解くべからず。ここをもって聖人は常に善く人を救ふ、故に棄人なし。常に善く物を救ふ、故に棄物なし。これを襲明(しゅうめい)と謂う。故に善人は、不善人(ふぜんにん)の師、不善人は善人の資なり。その師を貴ばず、その資を愛せざれば、智なりといえども大いに迷う。これを要妙(ようみょう)と謂(い)う。
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ものごとは、ことさらこれだといってやる必要は無い。押さえつけて、断じてやれというのではない。力づくは長続きしない。やってんのかやってないのか分からない、人為的でないのがいい。

用いようとする人やものをよく見て理解すれば無理強いが無い。状況にあわせて自然の流れに乗る。会議、会社、社会には流れがあるから利用する。それだと軽くやっても最大の効果が出る。達人のやり方。これからやろうとすることの特質を見る。人を使うならその人の個性を見る。そうすると上手く動くようになる。自分の勝手で「こなるといい」と強引にもってゆくのはまずいやり方。前に座れ、これから言うことを聞けというのは最悪。冗談みたいに言って、後から気づかせるとか。

一級の大工とか調理人は計らない。手の感覚が性格な定規だから。人間は自分の身体の中に定規を持つ。「正」という漢字は、「この線で止まれ」と書く。初心者には線が必要だけど、だんだん慣れてくると身体の中に定規が持てるようになって、ダンスでも踊れるようになる。

がっちり鍵をかけても、やぶられるときはあるから、開けられてもいいようにする。約束でも、「あの人とは守らなきゃ」と思わせる。勘どころを知っていると約束も守られる。

それが分かるのは、自分の中に定規があって、人間とはどういうものかを知っているから。ずーっと無いような顔をしていて、ぱっと出すのがいいとか。「秘すれば花」とか。

観察眼があると分かる。自分の思惑で動かそうとしてもダメで、今の状況に自分の思惑をどう乗せるか。直観力(要妙・ようみょう)を磨く。

極めた人にしかわからないもの(=要妙)がある。人を全部見抜くから、上手く人を使う。見通している。だから人を活かして使う(=人を救う)。人の大成する道が分かる。

自分の思惑があると対象が見えない。人も仕事も無になって見るとゴールもプロセスも見える。こざかしい智恵(=明)を持つと上手く行かない。だから、こざかしい智恵は覆いかぶせてしまえ(=襲明・しゅうめい)。

人間には体全体に能力がある。皮膚感覚や、空気の流れを感じることはすごい能力。頭で考えるだけじゃない。悪い奴は面白い。嫌なこともちょっと乗って味わってみる。そうするとみんな楽しい。

▼ 昔の日本は「年季」で弟子入りをして、身を預けて奉公した。弟子を取る方も、あそこで3年我慢すれば一人前の大工になれるという評判なら、弟子入りが増えたから、人を育てた。今の日本の会社はアメリカ式に能力を売りに行く場なのか、育てる場なのか中途半端で、プロを育てる場所になっていない。プロとは玄人のことで、くらいところが見えること。普通の人では見えないことが見えるようにならないとダメ。今の会社はそういう能力を高める研修とか指導をしない。江戸時代には、社会を知る、世間とは何か、人とはどんなものか、に精通させていた。

▼ 戦国時代に、他の武将が組織優先の考え方(組織で必要な能力を持つ人だけを採用する)をしていた中、秀吉は人優先の考え方をしていた。例えば、土木が得意な人なら土木部長にする。弓とか剣とかできなくてもいい。当時の人は農民じゃなきゃ土方だった。このように採用された人たちが墨俣の一夜城や石垣山一夜城を築いた。暗~い人が面接に来たら、葬式部長にして取り立てた。

▼ 年をとればとるほど、絶対自由の境地に近づいて便利にならないと。環境がそうなるのではない。自分がそうなる。でも今の日本のような人の扱いではダメ。人生の達人にならないと。職業は愉快になる手段で、自分を不自由から自由にする手段。偉くなるとかではない。世の中の真理をはかる手段としてやる。仕事もスポーツも同じで、楽しくないと成果が上がらない。ただし楽しくしたり成果を上げるには、まず必須能力を上げないと。勝てると面白くなる。鬼コーチの夏合宿があると能力が上がる。有無を言わせず厳しく鬼コーチが基礎を授ける。基礎が無いままの部下を叱っても成果は上がらない。でも本当は自分でやらないと。

▼ 人間の社会は「生き抜く」こと。人の命は他の命に支えられている。人はひとりになると生命の危機を感じる。仕事を一緒にする人たちは生命を支えあっている。仕事の話をしに来ることは、その人の命が来ること。命は自己主張をするとき喜ぶ。

2008年7月27日 (日)

2008年7月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想 (象元第二十五・重徳第二十六)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 道は直感的、実感的に感じる
人それぞれ違っていて、統一見解じゃないといけないと思うと道から外れる。もっと精神を開放する。「私はこう感じる」ということを大切に。そうすると心が広大無辺になる。どういうところにも行きわたってゆく。道と関係の無いものは無い。

2. 人と人が会うのは道の片割れと片割れが会う
すべて道の片割れだから、分かり合えないはずはない。

3. 「自ずと然り」というゴールの設定
そうすると、すーっと上手くいく。ある種、道にゆだねるところが無いといけない。
道との一体感を本当に信じることができれば、力がわーっと出るとか、そいういう余地がある。おれおれ、自分自分で遊びが無いと自然の力が入り込めない。隙間を残して自然に任せる。ゆだねないと上手くいかない。人は道と融合するとものすごい力が出る。施政者はそれを恐れて、神を人の上に置き、道、天、地、王が全く同じ位置づけだとは教えなかったのかもしれない。

4. 世の中大したものじゃないから落ち着け
冷静になって楽しむ。そんなに命を切り刻む生き方はやめる。

5. 命が大事
命をとられなきゃいいじゃないかとどーんとしてうまいものを食べてぐっする眠ることを主にしてくらすのが人の生き方。根本を見失わない。

■感想
皆さんの話の中で、今のような時代に、リーダーはどうあればいいのか、という話題があったかと思います。勉強会ではお話しませんでしたが、私は自分で考えるに、私がこの人の言うことを聞かざるを得ないと感じるのは、私の言うことを聞いてくれるリーダーのように思います。

リーダーが目下の人の言うことを聞くというのは変な話のようですが、一人で「ああしろ、こうしろ」と命令口調のリーダーを適当に「かわす」のはそんなに難しくはありません。できることは表面的・形式的に対処して、できないことは、認めて謝っとけばいいからです。怒られたら適当に聞いておけばいいし、オーナーシップが向こうにあるのだから、こちらは主体性を持つ必要も無く、楽なものです。

これに対し、もし私の意見を聞いてくれたり、あなたの言う通りだ、とか言われてしまうと、そう言っている人の望むことをこちらが受け入れないのは難しいモラルが形成される感じがします。

またアメリカソニーの盛田さん・田宮さんの話にもありましたが、細かく命令口調で言ってこないリーダーというのも、下の人間からすると本当に対処に困るものですが、新しいものを作り出すときのリーダーシップというのはこうしたものかもしれません。

2008年7月13日 (日)

重徳第二十六

重爲輕根、靜爲躁君。是以聖人、終日行不離輜重。雖有榮觀、燕處超然。奈何萬乘之主、而以身輕天下。輕則失臣、躁則失君。
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重は軽の根(こん)たり、静は躁(そう)の君たり。ここをもって聖人は、終日行けども輜重(しちょう)を離れず。栄観ありといえども、燕処(えんしょ)超然たり。いかんぞ万乗(ばんじょう)の主にして、身をもって天下より軽しとするや。軽ければすなわち臣(しん)を失い、躁(さわが)しければすなわち君(きみ)たるを失(うしな)う。
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世の中大したものじゃないから落ち着け。冷静になって楽しむ。そんなに命を切り刻む生き方はやめる。

軽とは、あっちこっち行って大変だ、大変だと言う態度。躁(そう)は騒がしいこと。「もっとしっかりしろ」と言いたくなる。落ち着いて、冷静で、したたかで動揺しないのがいい。そういうことが分かっている聖人は、弁当だけは忘れない。最も大事なものは忘れない。

綺麗なものとか、そういうもので気取るよりお弁当が大事だから超然としている。命の方がよっぽど大切。

中くらいの国を治めている国の君主が軽かったら、部下が去って行ってしまう。命をとられなきゃいいじゃないかとどーんとしてうまいものを食べてぐっする眠ることを主にしてくらすのが人の生き方。根本を見失わない。

▼「厳しい」ということは誤解されやすい。本当に厳しいというのは、がみがみ細かいことを言うことではない。厳しさをはきちがえない。

アメリカソニーを作った田宮さんは、ある日「コピーとっといて」というのと同じような感じで盛田さんに「アメリカソニーつくって」と言われた。どうやってとたずねても、「どうやったらいいかも任す」、いつからアメリカに行くのかと聞いても、「そこに座っててもしょうがないから今日とか明日から行った方がいいんじゃないの」、アメリカでは誰を訪ねればいいか聞いても、「まず不動産屋行けば?住みかがないと」といった調子だった。アメリカソニーは今6~7兆円の企業に成長している。

盛田さんは田宮さんから相談を受けても、「大変だね、胃薬飲んだほうがいいんじゃないの」、意思決定を求めても、「いいでしょうかって、君がやるんだからね」という対応だった。本当に厳しいというのはこういうこと。

▼「主」という漢字の、王の上の点は炎を表している。主という字は、明かりを表している。明かりは動いちゃいけない。大難のときに国民にあかりをともす存在。「主客」というが、主の反対に、客という漢字は、家の中におのおのと書く。旅館やホテルのように人が入れ替わる感じ。主がいないと暗い。政治の役割は主になることなのに、今は政治が客になってしまい、右往左往している。

2008年7月12日 (土)

象元第二十五

有物混成、先天地生。寂兮寥兮。獨立而不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。故道大。天大。地大。王亦大。域中有四大、而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。
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物あり混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり、独立して改まらず、周行して殆(おこた)らず、もって天下の母となすべし。われ、その名を知らず。これに字(あざな)して道といい、強(し)いてこれが名をなして大という。大なれば日(すなは)ち逝(ゆ)き、逝(ゆ)けば日(すなは)ち遠(とほ)ざかり、遠(とほ)ざかれば日(すなは)ち反(かへ)る。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王もまた大なり。域中(いきちゅう)四大あり、而うして王もその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法(のっと)る。
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道の説明をしている章。道のありようを自己のありようとするのがよりよい生き方。そのためには手本である道を知る。

天地の前は混沌から始まった。混沌は重要で、混沌が無いと新たなものが生まれない。場を混沌とさせなければ、新たなものは生まれないから、良い創造のためには混沌の中に入って行く。

(天地に先立って生じた混沌は)、静寂で独立しており、変化することがない。いろいろなところにあまねく行きわたっている。強いて言うとこれが道。だからこれを母とする。人の子はお母さんのいうとおりにする。人は万物の母である道のあり方の通りにするのが平穏無事。

道は直感的、実感的に感じることが大事。人それぞれ違っていて、統一見解じゃないといけないと思うと道から外れる。もっと精神を開放する。「私はこう感じる」ということを大切に。そうすると心が広大無辺になる。どういうところにも行きわたってゆく。道と関係の無いものは無い。

人と人が会うのは道の片割れと片割れが会う。すべて道の片割れだから、分かり合えないはずはない。

人は生まれた瞬間に道を忘れ、道から遠ざかって、自力で生きてゆくことが成長だという教育を受ける。この結果、共生とか融合とか、上手くやってゆく力を失ってゆく。対立とか区分するという要素は道には無い。人はそのように道から離れて行って、あるところでくるっと返る。

この世の働きは遠心力と求心力。この2つは同じもの。遠くに行けば行くほど、帰ってくる力がある。秘密にしようとするとバレたり、もっと売ろうと思うと売れなかったりするのはこのような道の力の働き。この世のものは、すべて道の力が影響している。

天、地、われわれの住む空間は道の影響を強く受けているから、道のありようを忘れると上手くいかない。王(=人)も道の影響を受けている。道、天、地、王は広大な宇宙から見れば全く同じ位置づけ。道のありようを自然に受け入れているか。「自ずと然り」というゴールの設定をしているか。そうすると、すーっと上手くいく。ある種、道にゆだねるところが無いといけない。

道との一体感を本当に信じることができれば、力がわーっと出るとか、そいういう余地がある。おれおれ、自分自分で遊びが無いと自然の力が入り込めない。隙間を残して自然に任せる。ゆだねないと上手くいかない。人は道と融合するとものすごい力が出る。施政者はそれを恐れて、神を人の上に置き、道、天、地、王が全く同じ位置づけだとは教えなかったのかもしれない。

2008年6月30日 (月)

6/6天成塾・窈窕会合同勉強会感想

益謙第二十二・虚無第二十三・苦恩第二十四

■とても興味深く、役立ったこと
1. 自分の楽しさと豊かさを大切に
無能か能力があるかなんてどうでもいい。他人の評価だから、能力が無いと思われている方がいいことだってある。本人が楽しい、豊かだと思っている方がいい。われわれはあまりにも人の目を気にして、喜怒哀楽があるけど、全くの浪費。

2. 自分に徹する
自分に徹することで一流になる。自分の基準で登ってゆくから満足しない。

3. 断続性が大切
物事は、長く続かないから長く続く。一日は日の出から夜まで一刻の休みもなく変化に次ぐ変化。一時も同じはない。でも昨日、一昨日を考えると、同じことが続いている。変化しているとも言えるし、変化していないとも言える。物事を集中して一週間はできない。でもとぎれとぎれならずっと続く。断続しているから続く。台風も雨も3日も一週間も続かない。大体一日。我々の命も、断続性が大切。

4. 「よく見せよう」は、「余食贅行(よしぜいこう)」
うまく見せよう、よく見せようは、よくない。そういうことにムダなエネルギーは使わない。ありのままのあなたがいい。ありのままのあなたで十分。
「よく見せよう」は、「余食贅行(よしぜいこう)」、つまり食べ残しのことで、良くないこと、ムダなこと。道を信じていたら食べ残しのようなムダなことはしない。

■感想
他人からの寵愛や華美には翻弄されないで、自分の人生を自分でいいと思うように生きるということは、老子の勉強会で繰り返し教えていただいてるテーマで、とてもひかれる考え方ですが、同時に、そういう目で見ると結局、案外、うまく見せよう、よく見せようというムダなエネルギーを使っているかなあという自分にも気づいたりします。

うまく見せよう、よく見せようというムダなエネルギーで生きていると、本当の自分に向き合うことが無いのかもしれません。もしかしたら、それはそれで楽なことというか、自分にとって気に入らないいろんなことを社会とか会社のせいにして、設定された舞台の上で文句だけ言ってればいいので、それは不自由だし満足は無いけど、でも自分で決めたんじゃないし、責任無いし、気楽は気楽なのかもしれません。

一方で周囲のノイズは消して自分の道を自分で歩き出してみることは、自由だし、それが本当に自分の望むことだけど、そのことにどこかで気が付いて、選んで、そうしたら考えてるだけじゃなくて、実際にそのための行動を少しづつとるようにする必要があると分かりました。実際に少しやってみると少し人生が変えることができるのかもしれません。

2008年6月23日 (月)

苦恩第二十四

跂者不立。跨者不行。自見者不明。自是者不彰。自伐者無功。自矜者不長。其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。
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跂(つまだ)つ者は立たず。跨(また)ぐ者は行かず。自ら見(あらわ)す者は明らかならず。自ら是とする者は彰(あきら)かならず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長とせられず。その道におけるや、余食贅行(よしぜいこう)という。物これを悪(にく)む。故に有道者は処(お)らず。
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うまく見せよう、よく見せようは、よくない。そういうことにムダなエネルギーは使わない。ありのままのあなたがいい。ありのままのあなたで十分。

「よく見せよう」は、「余食贅行(よしぜいこう)」、つまり食べ残しのことで、良くないこと、ムダなこと。道を信じていたら食べ残しのようなムダなことはしない。

よりよく見せようとすると反対に、認められたり、リーダー(長)と見なされることは無い。

▼老子は「龍のように」厳しい人。

2008年6月20日 (金)

虚無第二十三

希言自然。飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、道者同於道。徳者同於徳。失者同於失。同於道者、道亦樂得之。同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足焉、有不信焉。
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希言(きげん)こそ自然なれ。飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。たれかこれをなす者ぞ。天地なり。天地すらなお久しきこと能わず、而(しか)るをいわんや人においてをや。故に道に従事(じゅうじ)する者は、道にあるものは道に同じくし、徳ある者は徳に同じくし、失へる者には失に同じくす。道に同じくすれば、道あるものもまたこれを得(う)るを楽しむ。徳に同じくすれば、徳あるものもまたこれを得(う)るを楽しむ。失へるに同じくすれば、失へるものもまたこれを得るを楽しむ。信足らざれば、ここに不信(ふしん)あるなり。
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物事は、長く続かないから長く続く。一日は日の出から夜まで一刻の休みもなく変化に次ぐ変化。一時も同じはない。でも昨日、一昨日を考えると、同じことが続いている。変化しているとも言えるし、変化していないとも言える。物事を集中して一週間はできない。でもとぎれとぎれならずっと続く。断続しているから続く。台風も雨も3日も一週間も続かない。大体一日。我々の命も、断続性が大切。

同じような人がいると思うとみんな楽しい。道なら道じゃなくて、相手を見て合わせた方が長続きする。ただし、本当に思ってやっていればいいけど、方便でやっているといいかげんと思われる。道がある人間にはあるように、無い人間には無いように。ざっくばらんな人にはざっくばらんに。いろんなものを持っていないと。

いろんな面を自覚して、相手と共通なものを探す。そうしないで主張すると疲れる。幅広い人の勝ち。そうするとつきあえない人がいない。

▼「そういうこともあるだろう」と適当に切り上げるのが重要

▼影響は「かげ」と「ひびき」。本当のものがある人は影響を受ける。

▼理屈で考えないでもっと自由に=「信(まこと)」 合わない人間は合わないということもあるが、上司と部下になったいるだけでよくよくのご縁。「おれはお前の上司(部下)やってやってんだ」ぐらいの気持ちでいい。

2008年6月19日 (木)

益謙第二十二

曲則全。枉則直。窪則盈。敝則新。少則得。多則惑。是以聖人抱一、爲天下式。不自見、故明。不自是、故彰。不自伐、故有功。不自矜、故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。
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曲なればすなわち全く、枉(おう)なればすなわち直(なお)し。窪(わ)なればすなわち盈(み)ち、敝(へい)なればすなわち新なり。少なればすなわち得、多なればすなわち惑(まど)ふ。ここをもって聖人は一(いつ)を抱き、天下の式となる。自ら見(あら)はさず、故に明らかなり。自ら是とせず、故に彰(あきら)かなり。自ら伐(ほこ)らず、故に功あり。自ら矜(ほこ)らず、故に長たり。それただ争わず、故に天下よくこれと争うなし。古(いにしえ)のいわゆる曲なればすなわち全しとは、あに虚言(きょげん)ならんや。まことに全くしてこれに帰(かえ)すなり。
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老荘の説くところをあらわしている。枝ぶりがくねくね曲がっていると材木として切られないから、完全な形でいつまでもいられる。長寿をいいことと考えれば、欠点があるからヒマで健康で長生きもいい。才気があるためにこき使われて早死によりいいかも。

尺取虫のように身を曲げるから、ずっとまっすぐ行ける。くぼみがあるから満つることができる。古いものは新しく変われる。少なければ得やすいけど、多いと何をつかむか迷う。

道を基準に生きる。道の基準は楽しんで心豊かに生きて長寿をまっとうすること。それが一(いつ)。それで楽しんで生きていると天下の手本になる。

自分から「これを知ってる」と言わないから、間違わない。自分を良いとしないから、もっと真実を知ろうとするから真実がわかる。もうこんなものと探求を止めない。

自分の腕力を誇らないから正当な評価を受ける。名門の出とかそういうのをほこらないから、立派と思われて長になる。そうやって暮らしていると争いがない。多くの人は、その人と争いようがない。かちんとこない。自分が満足しているから、そんなことどうでもいい。

昔から、「曲なれば全し」というけど、ずっと残ったものは天寿をまっとうして道にかえる。

▼無能か能力があるかなんてどうでもいい。他人の評価だから、能力が無いと思われている方がいいことだってある。本人が楽しい、豊かだと思っている方がいい。われわれはあまりにも人の目を気にして、喜怒哀楽があるけど、全くの浪費。

▼「これを知るものは、これを好むものにしかず。これを好むものは、これを楽しむものにしかず」といい、楽しむ努力家はすごい。

▼職業が何かより、生きていることが重要。生きながら死んでいる人ばっかり。生きている人は感動の連続。

▼基本的には目立たないようにするのがいい。自分のやりたいことをやらせてもらえるようにしてゆく。自分がやりたことができる環境は自分で作る。焦らなくて、60才くらいでできると思っていると、50才くりでできる。自分が楽しめる環境は与えられることは無い。

▼自分に徹することで一流になる。自分の基準で登ってゆくから満足しない。

2008年6月 2日 (月)

2008年5月天成塾・窈窕会合同勉強会感想

異俗第二十・虚心第二十一

■とても興味深く、役立ったこと
1. 道と一緒に生きる
人間はひとり。ひとりで生まれてきてひとりで死ぬ。ひとりをもっと楽しまないといけない。そのときに大切なのは道と一緒に生きること。そうすると尽きることがない。自分がひとりになればなるほど、道との同行感が出てくる。

2. 山ごもりも、一度はいい
究極は捨てることで、捨てた後帰ってきたのが芭蕉や利休。芭蕉は9年ことばを発しなかった後、5、7、5のことばを生み出した。利休も茶室をどんどん狭く、終には二畳にまでしたことで、宇宙が茶室という状態になった。

3. 魅力的な人は得体が知れない
「こういうところがある」とひとつひとつなら言えるけど、「こういう人」とは言えない。言える人はたかが知れている。本物はとても分かりにくいもの。「もっと分かりやすく言ってよ」と言えば言うほどわかりにくくなる。

4. 虚心になって働く
複雑なリーダーの本質も、虚心になれば見える。思惑があると本物は相手にできない。達人と対峙するときには無心になること。気に入ってもらおう、評価してもらおう、好きになってもらおうと思わず、無心になって働く。そうするとうんと勉強になり、うんと糧になる。

5. 深沈厚重(しんちんじゅうこう)が一番すぐれたリーダー
リーダーで一番すぐれているのは、動じない深沈厚重(しんちんじゅうこう)。太っ腹な磊落豪雄(らいらくごうゆう)は、如才ない聡明才弁(そうめいさいべん)よりはいいけど、抜け落ちがある。聡明才弁(そうめいさいべん)、つまり頭が切れて弁が立つことは、リーダーの資質としては3番目に過ぎない。人は、分かりやすい人物にリーダーになって欲しいと思ってしまったりする。でも厚みのある人にリーダーになってもらわないと。

■感想
今日は月曜日ですが、ひとりでも道と一緒というイメージは忘れないように、あまりいろいろ考えず、特に感情は空にして、虚心になって働くという風で今日一日、今週一週間過ごせるといいです。今週金曜日もまた窈窕会なので楽しみにしています。

2008年5月28日 (水)

虚心第二十一

孔徳之容、唯道是從。道之爲物、唯怳唯忽。忽兮怳兮、其中有像。怳兮忽兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。自古及今、其名不去、以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉。以此。
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孔徳(こうとく)の容(よう)は、ただ道にこれ従う。道の物たる、ただ怳(こう)ただ忽(こつ)。忽たり怳たり、その中(うち)に像(ぞう)あり。怳たり忽たり、その中に物あり。窈(よう)たり冥(めい)たり、その中に精(せい)あり。その精甚(はなは)だ真にして、その中信あり。古(いにしえ)より今に及ぶまで、その名去らず。もって衆甫(しゅうほ)を閲(す)ぶ。われ何をもって衆甫のしかるを知(し)るや。これをもってなり。
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リーダー論。魅力的な人は得体が知れない。「こういうところがある」とひとつひとつなら言えるけど、「こういう人」とは言えない。言える人はたかが知れている。本物はとても分かりにくいもの。「もっと分かりやすく言ってよ」と言えば言うほどわかりにくくなる。

本物のリーダーは色んな面がある。単純なリーダーなんて始末に終えない。本物のリーダーほど複雑な人。とりつくしまがなく、どこからいっていいんだか分からない、底知れぬ深い穴のような人。

ものごとの本質はどういうところにあるのか。はっきりしないものの方が実は価値がある。

複雑なリーダーの本質も、虚心になれば見える。思惑があると本物は相手にできない。達人と対峙するときには無心になること。気に入ってもらおう、評価してもらおう、好きになってもらおうと思わず、無心になって働く。そうするとうんと勉強になり、うんと糧になる。

人は、分かりやすい人物にリーダーになって欲しいと思ってしまったりする。でも厚みのある人にリーダーになってもらわないと。

深沈厚重(しんちんじゅうこう)ナルハ是レ第一等ノ資質
(どっしりと落ち着いて物事に動じない人物、これが第一等である)
磊落豪雄(らいらくごうゆう)ナルハ是レ第二等ノ資質
(太っ腹でこせこせしない人物、これが第二等である)
聡明才弁(そうめいさいべん)ナルハ是レ第三等ノ資質
(頭が切れて弁が立つ人物、これは第三等に過ぎない)

といって、リーダーで一番すぐれているのは、動じない深沈厚重(しんちんじゅうこう)。太っ腹な磊落豪雄(らいらくごうゆう)は、如才ない聡明才弁(そうめいさいべん)よりはいいけど、抜け落ちがある。聡明才弁(そうめいさいべん)、つまり頭が切れて弁が立つことは、リーダーの資質としては3番目に過ぎない。

女性で深沈厚重(しんちんじゅうこう)なリーダーといえば、持統天皇。

2008年5月27日 (火)

異俗第二十

絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。乘乘兮若無所歸。衆人皆有餘。而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昬。俗人察察。我獨悶悶。忽兮若海、漂兮若無所止。衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
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学(がく)を絶(た)てば憂いなし。唯(い)の阿(あ)と、相(あい)去るいくばくぞ。善の悪と、相去るいかん。人の畏(おそ)るるところは、畏れざるべからざるも、荒(こう)としてそれいまだ央(つ)きざるかな。衆人煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく、春、台に登るがごとし。われひとり怕(はく)として、それいまだ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)のいまだ孩(がい)せざるがごとく、乗乗(じょうじょう)として帰(き)する所なきがごとし。衆人はみな余りあり、而(しか)るにわれひとり遺(わす)れたるがごとし。われは愚人(ぐじん)の心なるかな、沌沌(とんとん)たり。俗人は昭昭(しょうしょう)たるも、われひとり昏(くら)きがごとし。俗人察察(さつさつ)たるも、われはひとり悶悶(びんびん)たり。忽(こつ)として海のごとく、漂(ひょう)として止まるところなきがごとし。衆人みな以(なす)あり。而(しか)るにわれはひとり頑(がん)として鄙(ひ)なるに似たり。われはひとり人に異なりて、母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。
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この章では、「われひとり」が6回繰り返されている。

人間はひとり。ひとりで生まれてきてひとりで死ぬ。ひとりをもっと楽しまないといけない。そのときに大切なのは道と一緒に生きること。そうすると尽きることがない。自分がひとりになればなるほど、道との同行感が出てくる。

礼儀とかだけで良しとしてしまうのはどうなのか。細かい礼儀作法を気にしているのは不自由。もっと深い満足感や充実感がある。通俗的世界じゃなくて、宇宙のスケールで、道と一緒に生きた方がいいのでは。「世渡り上手」レベルの人間に満足感は無い。無礼になることはないんだけど、そこにとどまらないで、道と共に暮らすことを言っている。

孤独を恐れなくならないと、一人前にはならない。人と一緒にいたら、道と一緒にいる満足感は分からない。

もっとしみじみ生きる。山ごもりも、一度はいい。究極は捨てることで、捨てた後帰ってきたのが芭蕉や利休。芭蕉は9年ことばを発しなかった後、5、7、5のことばを生み出した。利休も茶室をどんどん狭く、終には二畳にまでしたことで、宇宙が茶室という状態になった。

絶対孤独の境地は誰にもみとられないで死ぬこと。それを経験すれば、ゴキブリだって一緒に生きている仲間だと思うようになる。山ごもりしてひとりになってみれば、以前はできが悪いと思っていた社員もかわいいと思えるようになる。

2008年5月 8日 (木)

2008年4月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想 (俗薄第十八・還淳第十九)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 自由に、自発的に、自分で生きる
社会とか組織に言われて自らを正すのはお粗末。他の人からとやかく言われない。会社で、「君は言われたとおりにやっていればいい」などと言われたら、相手を殴ってもいい。でも殴らずに、相手をかわすのも、老獪でいい。

2. 道家は「現行の革新」を要求している
現代で言うと、例えば「官」と「民」しか無かった社会に、そのどちらでもないNPOが「公」の概念として登場したことなど。

3. 社会通念の善より、生きていることのすばらしさ、ありがたさを大切に
何でも型にはめようとすると堅苦しい。自発的・自律的に思いやりを持つべきで、社会のルールであるべきではない。社会通念の善より、生きていることのすばらしさ、ありがたさを老荘思想は大切にする。生きていることを傷つけてまで型にはめない。
老荘思想の基本は、「生きる」を傷つけないこと。それを中心に考える。我慢も良くない。人間関係の悩みは「生きる」を傷つける。
自分の生きていることの重大さを忘れない。生を助けることをやる。

4. 自由奔放でもちゃんとなっているのが理想
70才で人生のゴールは、欲のおもむくままに行動しても、人間ができているから矩(のり)を越えない状態。自由奔放でもちゃんとなっている。それがいちばんいい。善とは人間を喜ばせること、悪は人間を悲しませることで、それだけ。

5. 楽しかった時の記憶を強める
いい記憶、いいイメージは重要で、これを引っ張りあげて育て、鮮明にすると幸せになれる。

■感想
会社のルールを守らずに遅刻する人を、中間管理職として注意するか、といったことが勉強会でも話題になりましたが、私たちの日常は、確かにこのような細かい規則や、他人からの評価、社会通念に縛られているのだと気づきます。

これらにこだわるほど不自由で苦しいのですが、そうえいば結構こだわっている自分を発見することも事実です。自発的に、自分で生きて、本当はどちらでもいい、というかこだわっても仕方の無い他人からの評価などはちょっと横に置いて、道と一緒に生きていることを感じながら、生きていることのすばらしさとありがたさを忘れないことは自分のために大切だと感じました。

2008年4月15日 (火)

還淳第十九

絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足。故令有所屬。見素抱樸、少私寡欲。
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聖を絶(た)ち智(ち)を棄(す)つれば、民利(みんり)百倍す。仁を絶(た)ち義を棄(す)つれば、民孝慈(こうじ)に復(ふく)す。巧を絶(た)ち利を棄(す)つれば、盗賊(とうぞく)あることなし。この三者(さんしゃ)にては、以爲(おも)へらく、文にして足(た)らず、と。故(ゆえ)に属(つづ)く所(ところ)あらしめん。素を見(あらわ)し樸(ぼく)を抱(いだ)き、私(わたくし)を少なくし欲を寡(すくな)くせよ。
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聖とか智が社会をつくると、どうしても規則を作りたくなる。そうすると規則を作る人、知らしめる人、違反を見張る人、違反を見つけたら引っ張ってくる人、裁く人、処罰する人、とすごい膨大な役人や行政が必要になる。反対に、善・悪のルールを守って自発的にやると、経費が減る。「うまく儲ける」のような発想は身分不相応な方に行っちゃうから、盗みをしたくなる。

もう少し言うと、素朴が良い。素朴は生を傷つけない最高の生き方。素はまだ染められていない糸、朴は山から切り出された荒木で、飾り気が無い。見栄、外聞、見てくれを考えていると生きることが苦しくなる。自然に、ありのままの自分でいい。ただ生きていることがベース。生きているだけで百点。ただ生きるって難しく、ありがたく、重大なこと。それは病気になると分かる。

病気のような非日常にならないと本質は分からない。でも火事で全てを失ったり、そんな経験を実際にしていては大変なので、そんな境遇にならなくても、「生きてて良かった」と思わないといけない。そうすると、異常なことも起きなくなる。

▼自己を回復せよ
自分の生きていることの重大さを忘れない。生を助けることをやる。

▼「時間をかける」という重要性
時間短縮の効率は本質を見失う。遅刻した社員をしかるのではなく、話し合ってみる。
アーノルド・ミンデルは、アイルランド紛争を老荘思想で解決した。トップ3人とひたすら話し合い、対立ではなく、融合できることばをピックアップした。民族、地域などではなく、こどもの話が一番良かった。「君の子はいくつだっけ」といった話をするとアットホームな雰囲気になり、「お前も人間だったのか」と気づいた。

▼暗い、嫌な話は朝やる
暗いニュースは夜見ない。夜は音楽をきいたりする。

▼楽しかった時の記憶を強める
いい記憶、いいイメージは重要で、これを引っ張りあげて育て、鮮明にすると幸せになれる。心理学者によると、自分が楽しかったときの記憶を強めるのが良いという。だからこどもには楽しい経験をさせてあげるといい。田口先生はこどもの頃の、土曜の昼に音楽をかけて、お母さんと白いパンを食べているイメージで生き返った。田口先生は6人兄弟だけれども、土曜の昼の白いパンのことは、他の家族は知らなかった。

2008年4月14日 (月)

俗薄第十八

大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昬亂、有忠臣。
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大道廃(すた)れて、仁義あり。智恵(ちえ)出でて、大偽(たいぎ)あり。六親(りくしん)和せずして、孝慈(こうじ)あり。国家昏乱(こんらん)して、忠臣あり。
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仁義が目立つのは、社会が乱れているから。「大偽」とは、大きな偽りのことで、妙な作為をするから、偽がはびこる。「お金が転がり込む」とかの上手い話には乗らないで、もっとボクトツに生きる方がいい。六親とは夫婦、兄弟、父子のことで、家庭が上手く行っていれば、考慈を言う必要が無い。国家が混乱してクーデターのようになって秩序が無ければ、忠臣が目立つ。

仁、義、考、徳はいいと思っても、状況がひどいから必要性が言われる。でも社会とか組織に言われて自らを正すのはお粗末。自由に、自発的に、自分で生きる。他の人からとやかく言われない。会社で、「君は言われたとおりにやっていればいい」などと言われたら、相手を殴ってもいい。でも殴らずに、相手をかわすのも、老獪でいい。

▼この章は、儒家と道家の二大思想の対立点をあらわしている。
仏教とは異なり、両方とも現世肯定であることは共通点。異なるのは、儒家の教えは現行の改善は要求するものの、「どういう会社でも上手くやってよ」というものであるのに対し、道家は現行否定で、革新を要求している。「忠義とか言っている会社は腐っている、そんな会社辞めてしまえ」という主張。

道家の現行否定は、間違うと社会を退いて山に隠棲してしまうような考え方。山にこもって禁欲生活をするのは簡単だけれども、面白くはない。やっかいな欲を、「ちくしょう、また欲にやられた」とか言いながら、いかに手なづけるか。ABどちらではなく、両方がいい。

▼道家の要求している「現行の革新」とは、
現代で言うと、例えば「官」と「民」しか無かった社会に、そのどちらでもないNPOが「公」の概念として登場したことなど。

▼老荘思想には、儒教への反逆心がある。
何でも型にはめようとすると堅苦しい。自発的・自律的に思いやりを持つべきで、社会のルールであるべきではない。社会通念の善より、生きていることのすばらしさ、ありがたさを老荘思想は大切にする。生きていることを傷つけてまで型にはめない。

プロの世界で、「時間に遅れないように」、「しっかりやって」と当たり前のことは言わない。高度な世界では、仁、義、考、徳をすすめるような幼さは無い。そういうのはもっと、自発的、自律的にする。

人間は型にはめられたら、怒るべき。でも自分勝手はダメで、摩擦は後で苦しくなる。長期的に見て、苦しくならないように、楽になるように。それでも周りに迷惑をかけない人間になる。

▼老荘思想の基本は、「生きる」を傷つけないこと。それを中心に考える。我慢も良くない。人間関係の悩みは「生きる」を傷つける。

▼「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」(論語)と言い、60才になったら嫌なことを言われても、「まーなー、そういうところあるかな」とか思って、不愉快なことは無い。

70才で人生のゴールは、欲のおもむくままに行動しても、人間ができているから矩(のり)を越えない状態。自由奔放でもちゃんとなっている。それがいちばんいい。善とは人間を喜ばせること、悪は人間を悲しませることで、それだけ。

2008年3月20日 (木)

2008年3月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想 (歸根第十六・淳風第十七)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 静寂の世界に帰ることは命の根源に帰ること
みんな道の片割れだけど、生まれる瞬間にそれを忘れてしまう。でも虚で無なら根本に帰れる。静寂の世界に帰ることは命の根源に帰ること。道、根源、命は同じ。無の世界から有の世界を見られるように、無の世界に行く時間をつくる。

2. 手を合わせる瞬間の心が虚
「察する」の「察」という漢字は、家の中で、神棚に肉を手で捧げている。手を合わせる瞬間の心が虚で、無の世界、命の世界、根っこ、道につながっている。生活の中に祈りの時間を持つイスラム教徒やキリスト教徒のように、虚の心になる時間を持つ。

3. 絶対的真理にふれていれば自信が出て寛容・公平になる
恒常の真理を忘れないことを明という。仏陀は「明」に目覚めているから全てがよく見通せる。これを知らずに欲得で何かしようとしても、道理に反しているから上手くいかない。常を知れば、絶対的真理にふれているから自信が出て寛容になる。寛容になればなるほど公平になる。公平になると、王の徳を持った状態になる。それが天。それが道。道と合致すると力強い。リーダーがそうなっていないと上手くいかない。
「私が」は最悪。皆にやってもらう。目の前の人だけじゃなくて、道も味方にしてやってもらう。

4. 馬鹿を装って見守るのはリーダーシップの極致
「バカ殿」は本当に馬鹿では無い。「良きにはからえ」と表面的にやって、水面下で根回ししている。

5. 宇宙、自然、天、道の力をとりこむ
人間の力なんて、大したものじゃない。宇宙、自然、天、道の力をいかにとりこむかが重要。腕ずくには限界がある。自然の流れに上手くチームを乗せる。

■感想
毎回私もとても勉強になりますが、今回は、合同勉強会の記録を、以前田口先生にも講師に来ていただいた、薔薇棘勉強会のメーリングリストに投稿してみたところ、何人もの人から考えるところがあった、との反響があり、特に、こどもたちの国際理解を促進するため、インターネットを利用した交流活動を世界的に推進しようとしているNPOパンゲア(http://www.pangaean.org/)代表の森由美子さんから、「人間の力なんて、大したものじゃない。宇宙、自然、天、道の力をいかにとりこむかが重要」という点について、出張先のエジプトから、「つくづくこれを感じております」と、すぐにメールの返信があったことは印象的でした。後で、エジプトの出張は本当に大変で、命がけだったとも聞きました。

私自身も、特にリーダーでなくても、「私はこう思う」、「私の意見はこうだ」、「こうなればいいのに」と固執すると、ささいなことでも上手くいかなくなるというのは実際の経験の示すところです。「私は」は「明」の視点ではなく、自分から見える表面に縛られた考え方なので、いくら強く思っても、というか、こういうことを強く念じれば念じるほど、益々、周囲と一緒にわーわーしてしまう結果になり、上手くいかないということなのかと反省します。

周囲の人たちの言っていることが、自分ではもうひとつ理解できないと感じて、分からなくなったときでも、せめて「でも私はこうだと思う」と自己主張を繰り返すことを止め、立ち止まって、背筋を伸ばして手をひらいて相手の言っていることを聞き、「まあ、こんなものか」と思ってやりすごしていると、不思議とものごとが勝手に収束してゆくというのもまた本当で、「私が」と無駄なことを何度も言ったりやったりしない忍耐力を持ち、一方では道の力に従えるように素直に働くことの大切さを感じます。

2008年3月12日 (水)

淳風第十七

太上、下知有之。其次、親之譽之。其次、畏之。其次、侮之。信不足焉。悠兮其貴言。功成事遂、百姓皆謂我自然。
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太上(たいじょう)は、下(しも)これあるを知るのみ。その次は、これに親しみこれを譽(ほ)む。その次は、これを畏(おそ)れ、その次は、これを侮(あなど)る。信(まこと)足らざればなり。悠(ゆう)としてそれ言を貴べ。功成り事遂(と)げて、百姓(ひゃくせい)みな「われみずから然り」と謂(おも)へり。
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リーダー論。いちばんいいリーダーは、「なんかいるらしい」と下の人たちはリーダーがいることを知っているだけ。その次は、下が親しんで褒める。その次は、下から恐れられる。最低なのは、下から侮られている。それは嘘が多いからで、良くも無いのにいいと言ったり、他人や自分に嘘はダメ。発言には注意をする。

実はいろいろな働きをして、上手く行くようにリーダーがしているんだけれど、全部自分がやったと下が思っているのが一番いい。

▼「バカ殿」は本当に馬鹿では無い。「良きにはからえ」と表面的にやって、水面下で根回ししている。馬鹿を装って見守るのはリーダーシップの極致。

▼褒めることは大事。自分も褒めてあげる。でも普通は誰もほめてくれないから、「お前よく我慢した、偉かった」と寝る前に自分で自分をほめてあげる。

▼人間の力なんて、大したものじゃない。宇宙、自然、天、道の力をいかにとりこむかが重要。腕ずくには限界がある。自然の流れに上手くチームを乗せる。

2008年3月11日 (火)

歸根第十六

致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀其復。夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜。是謂復命。復命曰常。知常曰明。不知常、妄作凶。知常容。容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。
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虚(きょ)を致すこと極まり、静を守ること篤(あつ)ければ、万物並び作(おこ)るも、われもってその復(かえ)るを観る。それ物芸芸(うんうん)たるも、おのおのその根(ね)に復帰(ふっき)す。根に帰るを静といい、これを命に復(かえ)ると謂う。命に復(かえ)るを常(じょう)といい、常を知るを明(めい)という。常を知らずして妄(みだり)に作(な)せば凶なり。常を知れば容(よう)、容なればすなわち公(こう)、公なればすなわち王、王なればすなわち天、天なればすなわち道、道なればすなわち久しく、身を没するまで殆(あや)うからず。
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道のありようを自己のありようとする。この世のものはすべて道から生まれてきた。道はお母さんみたいなもので、道に問いかけて生きるのがいい。老子はそれを、いろいろな方向から言っている。

根というのは根本のことで、根本は道。すべて道という根本に帰る。虚は無、つまり作為や思惑を排除した空っぽの心、空の心極まる状態のこと。無の世界は静寂。わさわさしているのは根本ではなく、混沌の世界。徼の世界はわーわーしている。色々なことが起こるけれど、虚で無なら根本に帰ることができる。

みんな道の片割れだけど、生まれる瞬間にそれを忘れてしまう。でも虚で無なら根本に帰れる。静寂の世界に帰ることは命の根源に帰ること。道、根源、命は同じ。無の世界から有の世界を見られるように、無の世界に行く時間をつくる。

「察する」の「察」という漢字は、家の中で、神棚に肉を手で捧げている。手を合わせる瞬間の心が虚で、無の世界、命の世界、根っこ、道につながっている。生活の中に祈りの時間を持つイスラム教徒やキリスト教徒のように、虚の心になる時間を持つ。

恒常の真理を忘れないことを明という。仏陀は「明」に目覚めているから全てがよく見通せる。これを知らずに欲得で何かしようとしても、道理に反しているから上手くいかない。

常を知れば、絶対的真理にふれているから自信が出て寛容になる。寛容になればなるほど公平になる。公平になると、王の徳を持った状態になる。それが天。それが道。道と合致すると力強い。リーダーがそうなっていないと上手くいかない。

利益とか売上のような現象の根が道と一体化しているかどうかで、会社が危ういかどうか分かる。一体化していれば、会社や国家も上手く行く。「帰根」には根本を見る。現象を見てもダメ。

絶対自由の境地で愉快に楽しく暮らしたければ、「帰根」。道という母の懐に帰るイメージ。虚とか無は、音も何も無い宇宙の真中に飛び出したイメージ。道と一緒に生きているという実感は必要。暗いところを歩いていてひとりじゃないと感じることがある。ひとりならこういう風に生きてゆけるか?何かに助けられているのでは。

アジアは母性重視で、ゆったりしたやさしさがある。21世紀は母性、融合の時代。

▼松下幸之助は、自分の成功の秘訣は、体が弱いことだと言った。自分は体が弱いから、皆にやってもらわないといけない。どうしたらみんな快くやってくれるのか、おだてるのがいいのか、冗談のひとつも言った方がいいのかと考える。「私が」は最悪。皆にやってもらう。目の前の人だけじゃなくて、道も味方にしてやってもらう。

2008年2月29日 (金)

2月15日窈窕会感想

賛玄第十四・顯徳第十五

■とても興味深く、役立ったこと
1. いなす、かわすには胸元まで来させる
軍事力など、鉄板より柳の強さが求められる時代、いなしたり、かわしたりする柔軟性の勝負になってきた。いなす、かわすは胸元まで来させる。もちみたいにやわらかくて、すーっと入っていくけど、離すともとの状態にもどってしまうような感じ。酒を飲ませても酔わないけど、最初から酔っているみたいな人間。討論には持ち込まない。

2. 欠点を克服するのもすごいことだが、欠点をさらに欠点にするのは、もっと凄い
良寛は荘子から、「のろまでぐずで気弱」は、舞台が違うだけで欠点ではないことを学んだ。良寛は欠点を克服せず、この欠点をさらに極めて、優しい人間になった。

3.有の世界の背後には、見えない・聞こえない・捉えられない無の世界がある
人間のホームグラウンドは無の世界で、我々の根源である道は見えない。見えない世界というのは、心と心の交流とか、ことばじゃなくて真心が感じられるような世界のことで、こちらの方が本当で、これを信じて生きた方が本質的に生きられる。

4. 見えないものが見える・聞こえないものが聞ける・触れないものを触れるのがプロフェッショナル
見えないものを見る、聞こえないものを聞く、触れないものを触るのが文化。その方が本質だから。それができるのが専門家。「洞察」の「察」は家の中に祭りと書く。つまり、家の中の神棚に向かって祈っているときのような、鏡のような気持ちで暗闇を見るのが「洞察」で、心の目で見ること。プロフェッショナルは玄人で、暗いところが見える人。暗いところとは例えば人の心の中とか。

5. 美しい「妙(みょう)」と混沌の「徼(きょう)」の世界の両方を経験する
聖と俗の両方の世界は見えなくて、真ん中の世界だけが見えている。でも真ん中なんて意味が無い。聖人でしたたか、美しくて汚いと、360度の要素を持った複雑な人が立派な「士」。社会が複雑だから、こちらも複雑にならないといけない。リーダーとは、人の上に立つ人というよりは、動じない人間のこと。

■感想
今回は2章読んだところで時間になってしまい、授業の最後に田口先生からは、「2個しか売れないんじゃ商売あがったりだ」とのコメントもありましたが、毎回消化しきれないほど沢山の興味深いことを教えていただいていると感じています。

「いなす、かわすには胸元まで来させる」、「聖人でしたたか、美しくて汚いと、360度の要素を持つ」、「リーダーとは、人の上に立つ人というよりは、動じない人間のこと」ということが特に印象に残りました。目の前で起こることや、相手から言われたことに、びっくりしたり、不安になったりしていては、いなしたり、かわしたりはできないように思います。柔軟になれるのは自分の中に様々な要素があってこそなんだなと理解しました。

また以前から教えていただいているように、物事はあまりつきつめず、「まあこんなものか」とぼんやり考えておくことも大切だなと思いました。とはいえ私は窈窕会の感想も毎回提出しておりますように、実際には几帳面かつナーバスな人間なのですが、この欠点を突き詰めると一体どんな人間になるのだろうと考えたら、答えは分からないのですが、面白いなと思いました。

2008年2月24日 (日)

顯徳第十五

古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容。與兮若冬渉川。猶兮若畏四隣。儼兮其若客。渙兮若冰之將釋。敦兮其若樸。曠兮其若谷。混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈、故能蔽不新成。
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古(いにしえ)の善(よ)く士たる者は、微妙玄通(げんつう)、深くして識(し)るべからず。それただ識るべからず、故に強(し)いてこれが容(かたち)をなせば、与(よ)として冬川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として四隣(しりん)を畏(おそ)るるがごとし。儼(げん)としてそれ客のごとく、渙(かん)として氷(おこり)のまさに釈(と)けんとするがごとく、敦(とん)としてそれ樸(ぼく)のごとく、曠(こう)としてそれ谷のごとく、混(こん)としてそれ濁(にご)れるがごとし。たれかよく濁りてもってこれを静かにして徐(おもむろ)に清まさん。たれかよく安んじてもってこれを動かして徐に生ぜん。この道を保つ者は、盈(み)つることを欲せず。それただ盈たず、故によく敝(やぶ)るるも復成(またな)すなり。
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この章は、老荘思想のリーダーシップ論。

昔の中国では「士」と「書」の2階層があった。「士」は国家に使える役人で、「書」は一般人。書の人は、自分の人生を面白おかしく生きていい。一方、士の階層の人は自分のために権力は使わない。書の人が楽しく生きられる社会を作り、他人の喜びを自分の喜びとするのが東洋のリーダー。

立派な「士」と言える人は、微妙で深くて表現のしようがないが、強いて言うならば、以下のような人。

①慎重:氷の張った冬の川を、片足で氷をたたいて確かめながら、疑い深くわたってゆくような人。

②用心深い:用心深く、周りを恐れているような人。何が飛び出してくるか分からないとびくびくしている。

③堂々とした:堂々とした客のように振舞う人。

④温かい:氷が解けてゆくような温かみのある人。

その他には、
山から切り立てで製材されていない(山出しの)木のような素朴な人。
幅が広くて肥沃な栄養分の集まる谷のように全てを受け入れる幅広さのある人。つまり、綺麗なだけではなく、さまざまなものを併せ持っている。だから言い様が無い。

360度の要素を持った複雑な人。聖人でしたたか、美しくて汚いと色々な面を持っていないといけない。死ぬまで色々な要素を足して、どんどん増してゆく。それでまた複雑な人になる。

社会が複雑だから、こちらも複雑にならないといけない。

美しい「妙(みょう)」の世界をよく見て感じ、混沌の「徼(きょう)」の世界もよく見てまみれる。この両方にまみれる。真ん中なんて意味が無い。

豊かさは、選択肢が豊富なこと。自分を楽しめる人間。豊かな人生には、両方を体験する。

リーダーとは、人の上に立つ人というよりは、動じない人間のこと。

嫌なことが起きないように願うのではなく、嫌だと思わなければいい。

「知る者は好む者に如かず。好む者は楽しむ者に如かず」
「知者は川(変化)を楽しむ。仁者は山(動かないもの=真理)を楽しむ」
人間として重要なのは、楽しむこと。
楽しむと知的生産性が違う。

贊玄第十四

視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰。故混而爲一。其上不皦、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是爲忽恍。迎之不見首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、以知古始。是謂道紀。
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これを視(み)れども見えず、名づけて夷(い)という。これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。これを搏(とら)えんとすれども得ず、名づけて微(び)という。この三者は致詰(ちきつ)すべからず。故に混(こん)じて一となる。その上皦(あきら)かならず、その下昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂う。これを忽恍(こつこう)となす。これを迎(むか)うれどもその首(くび)を見ず、これに随(したが)えどもその後(しりえ)を見ず。古(いにしえ)の道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)し、もって古始(こし)を知る。これを道紀(どうき)と謂う。
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この章は、見ようとしても見えない、聞こうとしても聞こえないし、とらえられず、深くつまびらかにすることはできない「道」の説明。

またこのくだりは、日本文化の「侘び、寂び」の原点となった。見えない、聞こえない、捉えられないのは無の世界。有の世界の背後には無の世界がある。無の世界は、見えないけど、感ずることはできるかもしれない。

人間のホームグラウンドは無の世界で、我々の根源である道は見えない。

見えない世界というのは、心と心の交流とか、ことばじゃなくて真心が感じられるような世界のことで、こちらの方が本当で、これを信じて生きた方が本質的に生きられる。我々の生きている世界は有限だけれど、見えない世界は無限。

表面ではなく、深く描こうとするなら背後にあるものが大切。例えば長谷川等伯の松林図屏風(http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A10471)では、松ではなく、静寂感、寂寥感が表現されているが、それが日本画の表現。

見えない世界から見える世界を見た方がよく見えるから、無の世界があることを承知する。見えないけど感じる世界が大切。

ぼやけてよく見えないような芸術表現には広がりと深さがある。世阿弥は「秘すれば花」と言った。長谷川等伯の松林図屏風も朝もやでぼやけてよく見えない。

見えない世界を認めないと、人としての本性が生かされない。聖と俗の両方の世界は見えなくて、真ん中の世界だけが見えている。

見えないものを見る、聞こえないものを聞く、触れないものを触るのが文化。その方が本質だから。それができるのが専門家。

「洞察」の「察」は家の中に祭りと書く。つまり、家の中の神棚に向かって祈っているときのような、鏡のような気持ちで暗闇を見るのが「洞察」で、心の目で見ること。プロフェッショナルは玄人で、暗いところが見える人。暗いところとは例えば人の心の中とか。それを見ようとするのが老荘思想。

欠点を極める

欠点を克服するのもすごいことだが、欠点をさらに欠点にするのは、もっと凄い。のろまでぐずで気弱な良寛は、俗世ではもちろんやって行けず、出家をしたものの、若い僧との集団生活にもなじめなかった。そして10年行方知れずになっていた間に、読んでいたと思われる本が「荘子」。

良寛は荘子から、「のろまでぐずで気弱」は、舞台が違うだけで欠点ではないことを学んだ。良寛は欠点を克服せず、この欠点をさらに極めて、優しい人間になった。良寛が家に来ると和気が家の中に一週間漂ったという。

良寛の読んだ、
「あしびきの黒坂山の木の間より漏りくる月の影のさやけさ」
という歌の素朴さは良寛の人柄をあらわしている。

「柔弱は剛強に勝る」

軍事力など、鉄板より柳の強さが求められる時代、いなしたり、かわしたりする柔軟性の勝負になってきた。

人と人の対決でも柔軟な方の勝ち。

いなす、かわすは胸元まで来させる。もちみたいにやわらかくて、すーっと入っていくけど、離すともとの状態にもどってしまうような感じ。酒を飲ませても酔わないけど、最初から酔っているみたいな人間。討論には持ち込まない。

2008年2月 9日 (土)

第5回窈窕会(1/18)感想

無用第十一・檢欲第十二・猒恥第十三

■とても興味深く、役立ったこと
1. 無用の用
一見ムダと思われているものが役に立つ。一見ムダなものがあるからいい。無があるから用があり、ムダがあるから生きてゆける。
頭が良くて何でもぱっぱとこなしてエネルギーが切れて死んでしまう人より、あの人は何なのか、どういう能力があるのか、無能なんじゃないかという人が賢いのかもしれない。有用ばっかりを求めていては息がつまる。部屋もいつもいっぱいでは使えない。ムダは重要で、ムダがあるから生きている。有用な人しか生きられないではうるおいがない。

2. 何があるか分からないからやる気になる
有の世界の背後には触われない、見られない、聞こえない、無がある。見えるものには限度があるけれど、見えないものは無限。
見えないところには無限の広がりがあるから、明日はどうなるか分からない。分かったらやる気にならないけれど、何があるか分からないからやる気になる。わからないから面白い。

3. 身分相応を楽しむ
そうでないと命を削る。欲望を追い出したら限界は無いから何が何か分からなくなり、発狂して終わる。欲望を追うことに地に足のついた満足は無い。それより生命を維持するのに必要な実質(「腹のため」)を重視する。

4. 自分自身にいいことをしていれば災いはない
他人からの寵愛や、華美に翻弄されないで、自分の人生を生きないといけない。自分の納得する人生を生きて、どうでもいいことに一喜一憂しない。自分の満足感がどこにあるか考える。社会に翻弄されるのはつまらない。そういうのは放っといて、自分でいいと思うように生きる。自分が満足できることをやればいい。

5. ただ生きるのがまず大事
どの職業、何を心がけるという問題ではない。生きていることは感動で、感動の連続。

■感想
「無用の用」のような価値を認めないと、例えば教育のような仕事は面倒な上に費用もかかり、効果もはっきりしないので効率を追求する文化の中では、できなということになってしまいます。私の勤める外資系の銀行では、競争原理はものすごく働いており、人員数を抑え、費用を削減して収益を上げることは常に強調され、実践されていますが、一方で人材育成の文化がなかなか育ちません。

経営陣は人を育てたくないと思っているかというと、そうではなく、常に海外から日本に経営陣を招くのではなく(そうすると人件費もとても高いので)、国内で優秀な人材を経営陣に育ててゆきたいと本気で思っているのに、それを実現するための育成をどうすればいいのか、考えてはいても、答えを見つけられずにいます。

実は、「あの人は一体何の仕事をしているのか」というような社員の存在を許せると、育成のように一見ムダでも、長期的には意味のある仕事もできるようになるのかと思います。仕事は全て自分の手柄にしないと気が済まない人しかいないのであれば、誰も他人の育成なんかしないからです。

猒恥第十三

寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。故貴以身爲天下、若可寄天下。愛以身爲天下、若可託天下。
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寵辱(ちょうじょく)驚(おどろ)くがごとく、大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身のごとし。何をか寵辱驚くがごとしと謂(い)ふ。寵を上(じょう)となし、辱を下(げ)となす。これを得ては驚くがごとく、これを失いては驚くがごとし。これを寵辱驚くがごとしと謂(い)う。何をか大患を貴ぶこと身のごとしと謂(い)う。われの大患あるゆえんの者は、わが身を有(う)とするがためなり。わが身を無とするに及びては、われ何の患(わずらひ)かあらん。故に貴ぶに身をもってして天下を為(おさ)むる者には、すなわち天下を寄(よ)すべし。愛するに身をもってして天下を為(おさ)むる者には、すなわち以て天下を託(たく)すべし。
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「寵辱驚くがごとし」とは、寵愛を受けると嬉うれしくて驚き、またその寵愛を失って無視されるとまた驚くような、他人に翻弄される態度を言う。このような態度だと、何にでもいちいち驚くが、本当は自分自身に良いことをしていれば災いは無い。

「大患」というのは五色とか、五味のような華美や美食のことで、心身の健康を保つには良くないもののこと。「大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身のごとし」は健康に良くないものを貴ぶ方向に行ってしまうこと。

このように他人からの寵愛や、華美に翻弄される人ではなく、本質的に生きている人に天下を預ける。外からの反応や評判に一喜一憂するのは勿体ないこと。そうならない人に天下を預けた方がいい。

誰の人生なのか。自分の人生を生きないといけない。今自分の納得する人生を生きているか。どうでもいいことに一喜一憂していないか。自分の満足感がどこにあるか考えるのが大事。社会に翻弄されるのはつまらない。そういうのは放っといて、自分でいいと思うように生きた方がいいのでは。自分が満足できることをやればいい。

ただ生きるのがまず大事。どの職業、何を心がけるという問題ではない。生きていることは感動で、感動の連続。

▼ 平家物語の「祇王失寵」の段では、清盛の寵愛を失った祇王が、愛のはかなさを知り、髪を下ろして出家する。ところがその祇王のところに、清盛が心を移した次の女性(仏)が、「私も同じ運命だ(清盛の心はいずれ他の女性に移るだろう)」と言って出家姿でやってくる。一休はこの段を聞いて、悟ったといわれている。一休の母親の境遇は、祇王に似ている。

▼ 束縛されない方向へ、社会は流れている

▼ 芭蕉は旅をすみかとする人生を送った

2008年2月 8日 (金)

檢欲第十二

五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁田獵、令人心發狂。難得之貨、令人行妨。是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此。
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五色(ごしき)は人の目をして盲(もう)ならしむ。五音(ごいん)は人の耳をして聾(ろう)ならしむ。五味(ごみ)は人の口をして爽(そう)ならしむ。馳騁(ちてい)田猟(でんりょう)は、人の心をして発狂せしむ。得難きの貨(か)は、人の行(おこない)をして妨(さまた)げしむ。ここをもって聖人は、腹の爲(ため)にして目の爲(ため)にせず。故にかれを去(さ)りてこれを取る。
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欲望を追い出したら何が何だか分からなくなり、発狂して終わる。例えば着飾ることに限界は無く、表面が気になって内面はどこかへ行ってしまう。狩猟も、相手が人間であってもウサギとか狸とか狩の相手と思うようになっていってしまう。そのように欲望を追うことに、地に足のついた満足感は無い。名声などもそうだが、欲には限界が無く、充実感は無い。

豊富さの中ではひとつひとつの味とか音が分からなくなる。「腹のため」というのは、生命を維持してゆくために必要なものを重視するということで、実質重視。

身分相応を楽しむ。そうでないと命を削る(発狂する)ことになる。

▼田口先生はペシャワール会(http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/)の医師、中村哲さんに会って、「満足が洋服を着て歩いている」ような人だと感じた。中村さんはパキスタンやアフガニスタンで医療を提供するだけでなく、井戸を掘る仕事などもされている。

▼「均等法世代」は「キャリアウーマン」として頑張らされたが、女性には女性の人生があったのでは(メンバーの感想)

2008年1月31日 (木)

無用第十一

三十輻共一轂。当其無有車之用。挺埴以為器当其無有器之用。鑿戸牖以為室当其無有室之用。故有之以為利無之以為用。
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三十の輻(ふく)は一轂(いっこく)を共にす。其の無に当(あた)りて車の用有り。埴(ち)を挺(せん)して以って器(き)を為(つく)る。其の無に当(あた)りて器(き)の用有り。戸牖(こよう)を鑿(うが)ちて以って室を為(つく)る。其の無に当(あた)りて室(しつ)の用有り。故に有(う)を以って利を為すは、無を以って用を為せばなり。
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「無用の用」で、一見ムダと思われているものが役に立つ、一見ムダなものがあるからいいということがあり、無があるから有がある。有の世界の背後には触われない、見られない、聞こえない、無がある。見えるものには限度があるけれど、見えないものは無限。

見えないところには無限の広がりがあるから、明日はどうなるか分からない。分かったらやる気にならないけれど、何があるか分からないからやる気になる。見えないというのは人間にとってすごい可能性がある。役に立つものばかりでは疲れてしまう。

「この仕事はどうなっているのか」と上司に聞かれて、「わからない」と答えたら怒られるだろうが、「わからないからこそ、面白いんじゃないですか」と言ってしまえば相手は何とも言えない。先が見えないのもいい。しばらく楽しむ。

悩みも楽しみのうちで、選択肢があるから迷える。

生きていることを楽しむのが老子の考え方なので、その楽しい時間を長く過ごすことが良く、若死にする人は愚か者。頭が良くて何でもぱっぱとこなすと、どんどん仕事が来るが、それもこなしてもっとくるようになり、エネルギーが切れて死んでしまうんだったら、その人は賢い生き方をしたと言えるのか。

逆に、あの人は何なのか、どういう能力があるのか、無能なんじゃないかという人が賢いのかもしれない。有用ばっかりを求めていては息がつまる。部屋もいつもいっぱいでは使えない。ムダは重要で、ムダがあるから生きている。有用な人しか生きられないではうるおいがない。

恋愛は探究心で、お互いを探求しあう、宇宙探検みたいなもの。阿吽の呼吸という世界もあるが、山の2~3合目から頂上は見ない。

2008年1月 1日 (火)

第4回窈窕会(12/21)感想

(田口先生のタオクラブに送った、第4回窈窕会感想は以下の通り。)

第4回窈窕会(12/21)感想
易性第八・運夷第九・能爲第十

■とても興味深く、役立ったこと
1. 日向ぼっこをする
気を充満させるには、精神統一する。それには、赤ちゃんみたいに無心がいい。これは日向ぼっこをしている状態。心労とか心配は気が入ってくることを邪魔している。

2. 背筋を伸ばして(立腰・りつよう)手を開く
緊張したら、手の力を抜く。手の平を上に向けると、相手の気が読める。

3. 「あなたからどうぞ」と無数にやる
相手に学ぶ姿勢がないとダメ。自己主張は控える。学ぶために人に会っている。本を読むより、人からの方が学べる。水は栄養価に富んでる。川を流れて藻や岩など、ふれあうものから養分を吸収している。自分の主張ばかりしていたらそれはできない。水はいつも下へ下へ流れてゆく。これは謙虚さのあらわれで、自分の未熟さを自覚していれば誰からでも学べる。

4. 無為は流れを見守ること
自分の閉鎖的なところを開く勇気を持って。そうすると見えてくるから、既成概念でものを見ない。気がつかないだけで、底流ではいつも流れがあるから見守る。そうすると落ち着くところに落ち着く。

5. 生活の中で実践する
老子を勉強する部屋を出てからが勝負。特別な状態じゃなくて、生活の中で実践する。

■感想
心を空にして、気の流れを感じ、気のエネルギーを入れる習慣をつけたいと思います。それにはあまり自分の意見に固執するのではなく、自分を開いて相手の意見も聞いて、相手と一緒に新しい世界を見る気持ちが必要と分かりました。

どんなエネルギーや気の流れの世界にいるとしても、それが今自分のいる世界で、そこからしか始められないという覚悟が必要で、今自分のいる場所やそこにいる人たちを否定すると、そのことで自分が不自由で動けなくなるようです。

心を空にすることができないのは、自分の思う通りにはならないのではないかと、常に心配や不安でいっぱいになっているからだと思います。自分の思うようなタイミングに、思う通りには、実際のところ、多分行かないことは、少し考えれば分かることなので、「私の意見」を通そうと必死になるよりは底流の流れを見守る忍耐力を習慣とした方が、その時は自分の思い通りにはなっていないように思えても、生かされて生きている在り方に近づける可能性がずっと高いと分かりました。

確かに陽だまりは、人をほっとさせる場所で、私は幸せというと、晴れた日にお洗濯物を干していることがなぜかイメージされ、なぜそんな所帯じみたことが幸せなのかと自分でも不思議に思っていましたが、太陽のエネルギーが感じられるという意味だったのかなと気づきました。

心を空にすることができずに、常にいつもつまらないことでいっぱいいっぱいになっている、とクラスでお話したところ、田口先生がすぐに、「もう空になってるんじゃないの」と言われたことには驚きました。

教室以外で、心を空にするには窈窕会のメンバーと会えばいいというのもその通りで、出会いに感謝しています。

2007年12月30日 (日)

能爲第十

載營魄抱一、能無離。專氣致柔、能嬰兒。滌除玄覽、能無疵。愛民治國、能無爲。天門開闔、能爲雌。明白四達、能無知。生之、畜之。生而不有、爲而不恃、長而不宰。是謂玄徳。
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営魄(えいはく)を載(の)せ一(いち)を抱(いだ)いて、よく離るることなからん。気を専(もっぱら)にし柔(じゅう)を致して、よく嬰児(えいじ)たらん。玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)し、よく疵(し)なからん。民を愛し国を治めて、よく無為(むい)ならん。天門(てんもん)開闔(かいこう)して、よく雌(し)たらん。明白四達(めいはくしたつ)にして、よく無知ならん。これを生じ、これを畜(やしな)ひ、生じて有せず、なして恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。これを玄徳(げんとく)と謂う。
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「魂魄(こんぱく)」の「魂」は精神、魂、気のことで、「魄」は肉体、血のこと。魂魄が離れることが死で、人間の身体は気血でできている。

能爲第十は東洋医学の出発点で、気血がとどこおるとダメということを言っている。気は丹田と言って、腸のあたりから出る。血液は骨髄でできて、上から下に流れる。怒ると血が頭に上り、死んだ状態に近い。血は上から下へ、気は下から上へという状態を崩さない。

健康で長生きが重要。気と血液が一致して人になっているから、離れたらダメ。気は充満させるのが良く、気が薄いのはダメ。気と血液が一体化しているもので、「病は気から」はそれをやさしく言っている。

つねに精神統一した方がいい。それには、赤ちゃんみたいに無心がいい。日向ぼっこをすると、無心に近づける。心労とか心配は気が入ってくることを遮断している。

生まれたときは柔らかいのに、死に近づくと頭も体も固くなる。緊張したら、手の力を抜く。背筋を伸ばして(立腰・りつよう)手の平を上に向けると、相手の気が読める。

暗いところ(心)を清らかにすると、傷が無い。こちらの弱みが無くなる。欲の塊みたいな人間は簡単に扱える。一方、金も位も勲章も命もいらない人は始末に困るが、国の危機には必要な人材。

無為は流れを見守ること。自分の閉鎖的なところを開く勇気を持つ。そうすると見えてくるから、既成概念でものを見ない。

道は全てを生じそれを養いながら、産んでも所有したり束縛しない。何かしてあげたとかは無い。成長させても、見返りを求めない。やりっぱなしなんだけど、それ以上のものが返ってくる。

2007年12月29日 (土)

運夷第九

持而盈之、不如其已。揣而鋭之、不可長保。金玉滿堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。功成名遂身退、天之道。
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持(じ)してこれを盈(みた)すは、その已(や)むにしかず。揣(きた)えてこれを鋭(するど)くすれば、長く保つべからず。金玉(きんぎょく)堂に満つれば、これをよく守るなし。富貴にして驕(おご)れば、おのずからその咎(とが)を遺(のこ)す。功(こう)成り名遂(と)げて身退(しりぞ)くは、天(てん)の道なり。
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やりすぎの戒め。人生は節度が重要。「いっぱいに」は危険。いっぱいの水をつがれても、それをこぼさないでは一歩も動けない。

刀を鍛えて、ある限度を越えると弱いものになってしまう。

金とか玉とかありすぎは困る。心配で、そのために人生を費やすことになってしまう。

富貴を極めるというだけでもやりすぎなのに、その上奢っていたらやりすぎもいいところ。人には嫌われて、身内からはお金を狙われる。お金もいいけどある程度を過ぎると違う。

功を成したら身を引く調和の取り方が大切。限度、節度を知ってそれ以上を求めない。

腹七分が良く、100%には100%の辛さ、厳しさがある。「もっと」はやめる。未完成、発展途上が面白い。志半ばで死ぬのがいい。

▼現世は面白い、いいところなのに、どうしてそんなに面白くなく生きているのか?というのが中国古典の考え方。「功成り名遂げて」は面白くない。「悠々自適」はどこかに不安がある。金銭的に困らなくても、醍醐味はあるのか。

▼没頭没我がいちばんいい。嫌々やっているのと違い、ものすごくエネルギーを補給、吸収している。

▼気が付かないだけで、底流にはいつも流れがあるからそれを見守る。そうすると落ち着くところに落ち着く。のろいんだけど、気の流れを感じとりながら行くのがいいのか、早く障害を乗り越えながら行くのがいいのか。何が禍で何が幸運かよくわからない。苦も楽のうちならいいけど、そうでないと生命を傷つける。自分なりの間合いを見つけ出した方がいい。絶対自由の境地は固執しない。

▼孔子は、老子を龍のような人、鋭く厳しく身のこなしが早い人と言った。

2007年12月28日 (金)

易性第八

易性第八
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡。故幾於道。居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不爭、故無尤。
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上善(じょうぜん)は水のごとし。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に幾(ちか)し。居には地を善しとし、心は淵(えん)なるを善しとし、与うるには仁なるを善しとし、言は信なるを善しとし、政は治まるを善しとし、事には能なるを善しとし、動くには時なるを善しとす。それただ争わず、故に尤(とが)なし。
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水は争わない。どこに入れても自分の形を持たない。争いは自己主張からはじまる。主張しないのではなく、まず相手の形に合わせる。そうすると入れないところはない。世間を広くしたい、人の心に入りたいなら、相手の形を観察する。そして、それに合わせてゆけば入ってゆける。

水は栄養価に富んでいる。川を流れて藻や岩など、触れ合うものから養分を吸収している。自分の主張ばかりしていたらそれはできない。人に会えば会うほど向上するのはすばらしい。それを上善は水のごとしと言う。争わない。対立しない。対立は拒否だから、相手から何も得られない。

水はいつも下へ下へ流れてゆくが、これは謙虚さを象徴している。自分の未熟さを自覚していれば、誰からでも学べる。このような精神は道に近い。

水の精神を具体的に言うと、地に足がついているのがいい。地位が上がっていくのは恐ろしいことで、地から離れて中空に舞い上がっている状態。バランスをとって、どこかにアースが無いといけない。せめて心くらいは地についていないといけない。本当の大人物は偉ぶらない。10年見ていると、本物でなければ地に落ちてゆく。実力も無いのに地位ばかり上がると苦しい。

水は円満で寛容。まあいいだろう、そんなものだろうという感じ。角ばって形をつくると水から離れる。

喉が渇いたときの一杯の水ほどありがたいものはない。自分もそういう存在にならないといけない。

ことばは信頼に足ることが必要。ことばは安っぽくも言えるが、そうしていると本当の真実が分からなくなる。真実を話すことは水のような人間にとっての必需品。本当に必要なことばを言う。言わなくていいことは言わない。

政治は治まるのがよく、事はよい方向に行くのがいい。水は農作物とか、いろいろの効能(=能力)がある。人もそうならないといけない。それにはタイミングが必要で、ここぞというときにちょっとでも水があるとありがたい。

これが水に学ぶ生き方で、水のように生きるのがもっともよい。対立は人の生活をしにくくする。

雨だれは石をもうがつ強さがある。土石流、鉄砲水、洪水とか、そういうのは10年に一度で、後は任せておく。それで養分を吸収してすごい水になってゆく。

▼学ぶために人に会っている。本を読むより人からの方が学べる。先輩はどのようにやっているのか?と考えて先人を敬う。以前起きたことを教訓として、そのときどう対処したのかを学ぶといい場合がある。

▼学んだことは、特別な状態ではなく、生活の中で実践する。老子を勉強している部屋を出てからが勝負。

▼ひとつひとつの漢字を解釈して、さらっと言う。分かっているのかいないのかは人には分かる。例えば「稽古」はいにしえを考えるということ。お茶の稽古は、なぜ千利休や村田珠光はこうしたのか、考えること。

▼たとえば結婚とか、最初は相手のすることがいちいち頭にくるけれど、だんだんなじんでくる。相手に学ぶ姿勢がないとダメ。自己主張はひかえる。でも聞かれたら立派に言えないと。理解には、①皮膚の理解(一日で生まれ変わる)、②肉の理解(細胞が生まれ変わるのは1週間くらい)、③骨の理解、④髄の理解と四段階ある。無意識でできるのは、「髄の理解」で、無数に実践しないとそこまで到達しない。だから、「あなたからどうぞ」と無数にやる。

▼気楽に楽しんでやる。親が自分のことを育ててくれた苦労を思えば、「疲れた」ではない。ただし、生命を閉じてまでやることはない。「天の命ずるこれを性という」と言って、生命は借り物だから、自殺はしたらいけない。

2008年

12月窈窕会の最初に、田口先生が今年(2007年)と来年(2008年)についてお話してくださった。

今年(2007年)は丁亥(ていがい)の年で、「丁」の字の横の線はこれまで通りに続けるものは続けるという意味、縦の線はそれと全く違う方向のものを用意する意味。「亥」の字は木片をつけると「核」の字になり、エネルギーが渦巻いている状態。新たな可能性を見出すには、旧暦の今年中(つまり、2月3日迄)に準備しておくといい。すると、地下にマグマが渦巻く状態になる。

来年(2008年)は戊子(ぼし)といって、繁茂の勢いがある年。ねずみには繁殖能力があるから、いいことも悪いことも繁殖しやすい。だから悪いことは早く切ること。60年に一度の貴重な「爆発の年」だけれども、何か用意しておかないと爆発のしようがない。

来年はちょっとまずいことは切ること。それによっていいエネルギーが伸びる。ただし、本当にテロとかの爆発があるかもしれないから、勘を働かせて、まずいと感じた方向には行かない。

2007年11月22日 (木)

第2回窈窕会(10/19)の感想

田口先生の「タオクラブ」に送った第2回窈窕会(安民第三・無源第四)の感想は以下の通り。

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■とても興味深く、役だったこと
1. 千年くらいかかって作った読み下し文だからゆっくり読む

2. 欲望はアクセルで、ブレーキを作るのが人間性

3. 権力者の持つ自分本位の志は、他人には迷惑

4. 人は気血(きけつ)からできている
人の肉体は気の集合体だから、「元気」とか「病気」とか言う。気は丹田といって腸のあたりから出ているから、立腰(りつよう)といって姿勢が悪いと強気になれず、この状態を「腰抜け」という。血液は脊髄で作られているので、背骨が曲がっているのはダメ。血の分量でその人の落ち着きが決まる。

5. 大人になることは見守ること(=我慢)ができるようになること
見守るというのは何もしないことではない。よちよち歩きの子を見ているような緊張感のあるもの。見守っていると、「自ずと然り」と全部決まる。

6. 存在が説得力を持つのが究極のリーダーシップ
「湛(たん)として存する」とは水が深くたたえられた深い池や湖がそこにあるような、その人がいると何か落ち着くといった感じのこと。

7. 老荘思想の最も大切なのは、楽しむこと
苦だけではダメ。苦あれば楽ありはいい。自分の考え方を変えると変わる。

8. お腹も心も空がいい
空っぽは素晴らしいこと。茶碗でも会議室でも、空いているから使える。この世の本質は空虚。満たされているより空いている方がいい。

9.円滑に進めるには、みんなのことを聞く
「こうやってよ」と自分で言いたいようなことは、みんなの意見をよく聞くと不思議と出てくる。そのときに見逃さず、「それだよ」、「いい意見」、「すごい意見」、「今日はいい会議だった」と誉める。

10. 「心の落ち着き」は金では買えない

■感想
分相応に、幸せに暮らすというような普通のことが、しにくい世の中に生かされているという気がします。

会社でも、もっと上の地位や報酬を得るとか、もっと収益を増やすことを目標とすることが当たり前という前提で、皆「もっと、もっと」と欲望のアクセルばかりが強調されていて、「苦あれば楽あり」ではなく、会社は何か苦しいだけの場所というのが正直な実感です。

多くの収入や高い地位を得ても、「箸の上げ下げ」で常に争い、心の落ち着きを失っているようでは確かにちっとも幸せではないので、小ざかしさを捨てて、もっと大らかに、心を空にして生きるというのは、「もっともっと」が横行している今の時代に自分らしさを失わないで人間として生きるための実践的な知恵だと思いました。

ただどう心を空にすることができるのかというと、「いい月が出たなあ」と楽しむというような、当たり前の余裕を持つことを大切に感じても、実際にはなかなか心を空にしたり、目を上げて木々の緑に気がつくこともできず、つまらないことに不思議なほど、ほぼ常にいっぱいいいっぱいになっている自分がいるなと思うのですが、田口先生の授業を聞き、みんなと感想などを話すと、その後はとても心が空になっていることも、また不思議です。

また、湛(たん)として存するというようなあり方は素敵だと思いました。

2007年11月21日 (水)

韜光第七

天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生。故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪。故能成其私。
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天は長く地は久し。天地のよく長くかつ久しきゆえんの者は、その自(みずか)ら生きんとせざるをもってなり。故によく長久(ちょうきゅう)なり。ここをもって聖人はその身を後(あと)にして身先(さき)んじ、その身を外にして身存す。その私(わたくし)なきをもってにあらずや。故によくその私を成す。
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解釈
韜光(とうこう)とは、光を和らげるという意味。底光りする感じ。

自己主張は直にしないで、存在感でする。その方が長続きするし、絶対的な力をふるえる。天地は自分から長生きしようと思っていないから、長生きできる。強引さが無い。

ものごとは反転する性格を持つ。善も親切もほどほどにしないと、悪や迷惑に反転する。自分がこうしようと思う反対を考えて守ってゆくと、望む状況になる。

「偽」という漢字は、「人為」と書く。人為的なのも、ほどほどならいいけれども周囲が見えなくなるとだめ。ひとつのことにこだわると苦しいから、他のことも考える。

どのレベルの人間になるかという目標を持つ。存在が説得力になるような人間になる。

2007年11月20日 (火)

成象第六

谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。
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谷神(こくしん)は死せず、これを玄牝(げんぴん)と謂う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。綿綿(めんめん)として存するがごとく、これを用ふれども勤(つか)れず。
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解釈
道徳経では、宇宙の根源である道を母と見る。その母のありようを自分のありようとすることが道。それができる人が徳のある人(=道徳)。この節は、道を感得してそのように生きることができるよう、道とは何かを説明するもののひとつ。

天は母親としていりいろなものを生み続けて、もうやめようということはない。このように、この世の原理は創造である。道徳はモラルというけれど、クリエイティビティが大事。夜空には無数の星があるけれど衝突しないように、秩序はあるけれども、エネルギッシュでダイナミックな創造性が宇宙のありよう。革新が大切。

玄牝とは女性の生殖器のこと。雄の字は犠牲の意味をはらんでいて、父親には包容力や豊かさは無い。

コメント
日本を律令国家とした天武天皇はスーパースターだったが、実は易経が全て頭に入っていた持統天皇に動かされていた。この関係を見ると分かるが、東西、男性と女性、陰陽が和するとどんどん新しいものが生まれる。

19~20世紀は男性社会だったが、そのような儒教の時代は去り、21世紀は老荘思想の時代で、女子どもの時代。

2007年11月18日 (日)

虚用第五

天地不仁、以萬物爲芻狗。聖人不仁、以百姓爲芻狗。天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮。不如守中。
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天地不仁、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人不仁、百姓(ひゃくせい)をもって芻狗となす。天地の間(かん)、それなお槖籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動いていよいよ出ず。多言はしばしば窮す。中(ちゅう)を守るにしかず。
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解釈
天地には愛が無い。愛があったら憎しみもあるからこわい。

力のある人間は「愛も無ければ憎しみもない」というあり方がいい。そうするとえこひいきが無いから、損する人もでもない。

天は万物を祭礼用の犬のお守り(お正月飾りと同じで、終わったら捨てられる)程度に見ている。政治も不仁でなければならない。愛があるのはこわいことで、例えば可愛がられている人もいればいじめられる人もいるとか、それに翻弄される人もいる。公平無比な方がいい。

天と地の間は空気を送るためのふいごみたいなもので、中が空ということが創造の源泉である。エネルギーが絶えず入ってきて出てゆく。

心をカラにするとエネルギーが入ってくる。心配事とかはダメ。腹いっぱい食べるというのも良くない。心身ともに虚ということが重要。いっぱいというのは一番まずい。

たくさん喋ると窮してしまう。言うのは必要最小限にとどめる。「冲」といって、空がいい。感情は常に空に。

感情でいっぱいになってしまうと人との関係が見えなくなる。常に初めて出会ったときのように。一期一会というが、初心のういういしい心を持っていないといけない。物理的に毎日会う関係こそ、ういういしく「おはよう」と言う。

いつでもういういしさをとりもどせる方法があるといい。好きな犬の写真を見るとか、旅行するとか、芸術に触れるとか。心、意識、精神、魂は人間だけに与えられていて、本能と欲望をアクセルとすれば、ブレーキの働きをする。

心を空にすると新しい関係が出てくる。相手の思わぬ魅力を発見することができる。

そのほかのコメント
天地人といって、天と地の真ん中に人がいる。

絵師の伊藤若冲の名前は、「冲の若し」という意味。

絶筆の文章にはよく、こんなに風景が美しいと思わなかったと書いてある。きもちをまっさらにすることが大切。

あまりつきつめないで、「まあこんなものだろう」という熱心さ、10のうち3くらい。夫婦関係は2か1くらい。あまり深入りしない。ひとつことに左右されない。

「切りかえ」が大切。イチローは三振してもぱっと切り替えてヒットを打っている自分をイメージする。いいことをイメージする。

田口先生の犬の名前はトムで、「足るを知る者は富む」から来た名前。

利休の「南方録」に、「茶の湯の心は仏法修行の心を呈して悟りに至る道を暮らすこと」とあり、これは日本人の勤労観につながっている。悟りとは真理に出会うこと。覚悟というのは悟りを覚えると書き、今ここに、ということ。人は今ここでしか生きられない。

2007年10月30日 (火)

無源第四

道冲而用之或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似常存。吾不知誰之子。象帝之先。
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道は冲(ちゅう)にしてこれを用(もち)うるも、ひさしく盈(み)たず。淵(えん)として万物の宗(そう)に似たり。その鋭(えい)を挫(くじ)き、その紛(ふん)を解(と)く。その光を和げ、その塵(ちり)に同ず。湛(たん)として存するあるに似たり。われ、誰の子たるを知らず。帝(てい)の先(せん)に象(に)たり。
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「道」は老荘思想でいう宇宙の根源。道から天地と万物ができた。

「生死論」に答えることは哲学の条件。出生入死とは「出でて生き、入りて死す」という意味で、道から出ることが生まれること、道に帰ることが死ぬこと。だから中国古典では死ぬのは母親のもとに帰るみたいなもので、そう大したことではなく、おそれることはない。みんな同じ母親から生まれた同士。

「冲」とは空虚のこと。この世の本質は空虚であり、満たされているより空いている方がいい。お腹も心も空がいい。なんでもいっぱいにしようとすることは道に反するので、ほどほどがいい。

「淵として」は深いという意味。「万物の宗」は万物を生んだ祖先。

道の特性として説明していることとして、「その鋭を挫き」は、鋭いのは危険なので、少し丸みがあったり、多少鈍感な方がいいということ。「その紛を解く」は争いごとを解く意味。調和することは気持ちが良く、合わないのは不愉快だから同調する(ただし全員と調和しなくていい)。「光を和げ」はスター的なオーラはほどほどにしないと、もういいよと嫌われる意味。「塵に同ず」はごく普通の感じ。まわりとの調和が大事。「和光同塵」は長続きするコツ。このありようを自分のあり方とすると、全てをつかさどっているものと一緒になるから、宇宙大の器になれる。

「湛として」というのは水が深くたたえられたような、深い池や湖があるような、その人がいると何か落ち着くという感じ。存在が説得力を持つのが、リーダーシップの究極。

「上善水の如し」と言って、いちばんいいのは水。柔軟で、自分を持たないから入れないところは無い。自分の形を出せば出すほど入りにくくなる。水は土石流となって激しい自己主張をすることもあるが、そういうのは10年に一度くらい。

老荘思想のもっとも大切なのは、楽しむこと。苦しいだけではダメ。苦あれば楽ありのような苦しみであれば、苦しむのもいい。自分の考え方を変えると変わる。

円滑に進めるには、みんなのことを聞く。「こうやってよ」と自分で言いたいようなことは、みんなの意見をよく聞くと不思議と出てくる。そのときに見逃さず、「それだよ」、「いい意見」、「すごい意見」、「今日はいい会議だった」と誉める。老獪に、しなやかに、したたかに。

2007年10月29日 (月)

安民第三

不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。
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賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしむ。欲すべきを見(しめ)さざれば、民の心をして乱れざらしむ。ここをもって聖人の治むるや、その心を虚(むな)しくして、その腹を実(み)たし、その志(こころざし)を弱くして、その骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、かの知者(ちしゃ)をしてあえてなさざらしむ。無為をなせば、すなわち治まらざるなし。
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老子の読み下し文は、千年くらいかけて漢文から日本語を作ったものだから、ゆっくり読む。

「賢」は小ざかしさのことで、世の中はそんなちっぽけなものではないのでもっと大らかに生きたほうがいい。宇宙を思えば我々のいとなみは小さく、大きな視点を持つ必要がある。「ああいい月が出たなあ」と楽しむのは教養。教養人は、「まあいいじゃないか」と富貴貧賤を脱している。中国古典の「大人」を教養人、「小人」を知識人、と日本語に訳した人がいる。

争いは「箸の上げ下げ」から起こるもの。そう大したことから起こるのではない。

人には知恵があり、知恵のふるいどころは、自分に相応な収入でどう楽しく暮らすかということ。給料が低いのにフェラーリが欲しいだとか、身分不相応を狙ってはダメ。そうではなく、自分の身分を上げることを考える。安月給は安月給なりに暮らせるようにするのが政治で、例えばパリでは、所得に応じて住む地域や行くレストランも違うという風に、住み分けができている。

欲望はアクセルで、ブレーキを作るのが人間性。欲望にとりつかれたらいけない。儒家も道家も現世肯定で欲望肯定。これに対し、仏教は欲望と現世を否定している。ただし老荘思想は、格差、区分、やがては戦争を生む文明を疑っている。

中国古典の「聖人」は、saintのことではなく、立派な人のこと。

虚心というのは、変な策を弄しないこと。ちょっとあぶらあげをぶらさげてとかは考えない。一方で中国古典は生きること重視だから、長生きするにはちゃんと食べる。

「志を弱く」とは、中国古典にはいいとか悪とかが無いから。完全は無く、限度を越えたらダメ。あなたが志を持ったら、他の皆はその犠牲になるかも知れない。権力者の持つ自分本位の志は、他の人には迷惑。

「骨」というのは、肉体と心の両方。人は気血(きけつ:気と血液)からできている。人の肉体は気の集合体だから、調子が良いことを「元気」、悪いことを「病気」という。気は丹田といって、腸のあたりから出ているので、姿勢は良くしておく。「立腰(りつよう)」と言って、腰は刀をぶらさげた武士のように立てておく。姿勢が悪いと強気になれず、これを「腰抜け」という。気は下から上へ、血は上から下に流れて、逆流するのは死んだ状態。だから「頭に血がのぼる」のは良くない。

また血液は、脊髄、つまり背骨で作られているので、曲がっていてはダメ。血の分量でその人の落ち着きが決まる。

「無知無欲」というのは、妙な欲や、持たない方がいい知恵は持たないということ。何事にも拘泥しないすっきりした状態。空っぽは素晴らしいこと。茶碗でも会議室でも、空いているから使える。お腹もいっぱいより、体は空っぽが一番よく、気が充満する。

「智者」は知識を切り売りする人のこと。人間には知識以上の真理がある。

「無為」というのは、余計なことをしない、無為自然のこと。無為自然というのは、見守ることであって、何もしないのではない。ヨチヨチ歩きの子を見ているみたいなもので、傍観しているのではなく、大変なエネルギーがいる。自分で抱き上げた方が早いけれども、大人になるとは、見守ることができるようになるということ。これには我慢が必要。すると、「自ずと然り」と全部決まる。

慈愛は母性で、理屈抜きの愛。義愛は男性の愛で、「自分の役割を果たす」という理屈から来る愛で、この考え方は戦争に利用された。しかし男性にも慈愛はあるし、女性にも義愛はある。

「心の落ち着き」は金では買えない。

勝つことではなく、下がって解決することもある。

2007年9月24日 (月)

第1回窈窕会(9/14)感想

田口先生のオフィス「タオクラブ」に提出した第一回窈窕会の感想は以下の通り。

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■とても興味深く、役だったこと
1. 老子の言う「道」は、禅の「悟り」、そして禅から生まれた茶の湯にも影響を与えており、宇宙の根源とつながる一体感はことばで分かることではなく、体が感じるもの。

2. 無心に見る神秘的な「妙」と、有欲で見るごちゃまぜで汚い混沌の「徼」が共に「道」に通じており、道とはただ神秘的で美しいだけのものと考えるのは誤り。

3. 決め付けると不自由になるから、そのときに何を感じるかを基本に、それが本質であると知り、それを繰り返して感性で感じて暮らすと、何でも新鮮にものが見られるようになり、それが自由とか、幸福につながっている。

4. 相対評価はすぐ変わってしまういい加減な評価なので、それに拘ると不自由で自信が無くなってしまう。自然に生きるとは自分として生きることなので、比較ではない個性を大切にしなければならない。

5. 道=宇宙の根源と一体感を感じられる「絶対自由の境地」は自信満々の状態。

■よくわからなかったこと
なぜ自分の感情が、勉強会の後に急に静かになったのか、不思議に思いました。
勉強会の中でも申しましたが、最近会社での状況を辛いと感じていました。それで夜眠ろうとしてベッドに入って体を横たえると自然と、ネガティブで感情的な思いが自分の中をぐるぐるまわっていましたが、勉強会の夜は体を横たえても自分の感情の水面が鏡のように静かで、感情の声が何も聞こえず、すぐ寝てしまったことに驚きました。

■感想
会社での相対評価にあまり拘らない方が良いということは、「自分が評価されなくてもそんなに卑下する必要はない」といった意味ではこれまでも理解していたと思います。ですが、勉強会でも教えていただいた通り相対評価なんてとにかくすぐ変わるいい加減なものですから、特に昨今の「ダイバーシティー」で女性も登用を進めるべきである等という状況の下、たまたま外資系企業に勤めていると、たまたま自分が評価されてしまうこともあり、その場合にはどう考えたら良いか、私には分かっていなかったようでした。

世間一般にはプラスな評価であっても、それは自分の望んだものではなく、会社から期待されても何かちぐはぐで、「成果を上げている」と見られると、次はそれ以上を期待されるなんて蟻地獄みたいとしか感じられず、辛く、苦しく孤独に感じていたことは、私自身が相対評価の枠組みに深く囚われてしまっていたからだと思います。

仕事の状況は何も変わりませんが、今は、自分に与えられた課題と感じるものはやるしか無いし、そうでないものはそうでなく、この感覚を研ぎ澄まし、それに素直に使われることのできる自分が最も重要であり、それを後で会社がどう評価するかは、またその時の状況次第の結果の問題でしかなく、それは自分にとっての本質では無いと考えることができるようになりました。

このことは「茶の湯」の例からあっと思って気づきました。
実は最近、自分の内なる声より、「着物を着てお茶でもやれ」と言われていたのですが、その意味があまり理解できずにおりましたが、先生が「道」と禅、茶の湯の関係についておっしゃったのを聞いたときに、そういう意味だったのかと気づかされました。

このように考えると余裕ができて、社内でも「自分がこうだ(こんなに頑張っている、大変だ)」という主張をする必要も減り、それより周囲の状況がどうなのか、他の人が何を感じ、どう考えているのか、会社というごちゃまぜで混沌の「徼」の世界を観察できるようになりました。

2007年9月17日 (月)

第一回窈窕(ようちょう)会

去年の年末、私が窓際キャリアの師匠と仰ぐ、時間の大富豪ビル・ゴーツよりご紹介いただき、今年2月に薔薇棘勉強会講師として来てくださった中国思想家・経営思想家の田口佳史先生に、9月から薔薇棘メンバー有志で開始した中国古典勉強会の講師をしていただくことになった。

この中国古典勉強会の名称は、田口先生より「窈窕(ようちょう)会」とつけていただいた。勉強会の後作成した窈窕会メーリングリストに私が投稿した第一回勉強会の記録は以下の通り。またブログ版として漢文のテキストと、私の感想も付記する。

■窈窕(ようちょう)会
まず田口先生より、会の名称について、詩経の周南、「關雎(かんしょ)」より、「窈窕(ようちょう)会」というお名前をいただいた。

關關雎鳩 在河之洲
窈窕淑女 君子好逑
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關關たる雎鳩は 河の洲に在り
窈窕たる淑女は 君子の好逑
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「窈窕たる淑女」というのは女性に対する最大限の賛辞で、たおやかで豊かで美しく、凛としたところもあるけれども、ふくよかな心を持つ女性のこと。

このような女性は、水かさが増すとすぐに沈んでしまう河の中州のように心もとない毎日のいとなみにおいても、君子(田口先生のような立派な男性)の良い連れ合いである、という詩経の一番最初にある漢詩にある。

■座右の銘
テキストに混じってたまたま、以前田口先生が座右の銘とされていた漢文の一説がメンバーに配られていた。(今Googleで調べたら、これは「菜根譚」という中国古典より。)

耳中常聞逆耳之言、心中常有拂心之事、纔是進徳修行的砥石。
若言言悅耳、事事快心、便把此生理在鴆毒中矣。
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耳中常に耳に逆らうの言を聞き、心中常に心に払(もと)るの事あれば、
わずかにこれ徳に進み行ないを修むるの砥石(しせき)なり、
もし言々耳を悦(よろこ)ばし、事々心に快ければ、すなわち、
この生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)のうちに埋在(まいざい)せん
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その意味するところは、

聞きたくないことや、言われのない叱責を受けて、「もうやめて!」と思うことがあっても、そういう嫌なことこそ、自分を磨く研石であり、徳を修める修行だと思って聞いた方がいい。その逆におべんちゃらだとか、快いようなことばを聞いていい気になっているのは、まるで生命をとられて毒の中に埋められてるようなものだ。

田口先生はもうこの座右の銘はもう卒業されたが、ためになった座右の銘であったとおっしゃっていて、窈窕会メンバーも、座右の銘は指針として持っていた方がいいというアドバイスをいただいた。

■老子道經
次に「老子道經」から「體道第一」と「養身第二」を読み、その意味を指名されたメンバーが考えて発表し、その後に解説していただき、それぞれ感想を述べた。
ブログでは「體道第一」と「養身第二」のテキストとその解説及び私の感想を、次の投稿及びその次の投稿に分けて掲載する。

老子道經・體道第一

■體道第一
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
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道の道とす可きは、常道にあらず。名の名とす可きは、常名に非ず。名無し、天地の始には。名有れ、万物の母にこそ。故に常無は以てその妙を観んと欲し、常有は以てその徼を観んと欲す。この両者同じきより出でて名を異にす。同じきものこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。
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■解説
道とは宇宙の根源で、みんなここから生まれてきた。道というのは以心伝心で感じたり、体得するものであって、ことばで分かるのではない。本質は感じるもの、というのが東洋思想で、老子の影響を受けた禅でも、宇宙との一体感は体で感じるものであって、それを悟りと呼んでおり、さらに禅から生まれた茶の湯でも、宇宙の根源とつながりを感じることがある。

ものに名前を与えたり、ことばで説明することには限界がある。名前は名誉や名声、肩書きなど、一人歩きするので扱いにくい。名前ではなく、その人を見ることが大切。「~さんはこういう人」と、既成概念で決め付けると逃れられなくなり、不自由になる。その時に何を感じるかが基本で、それが本質。この見方を習慣とすると、何でも新鮮に見られるようになる。感性が大事で、感じて暮らすと幸せになれる。

無心であれば妙(人知を超えた神の世界)を見ることができるが、有欲になると混沌しか見えなくなる。しかし、神的で美しいものと、ごちゃまぜで汚い混沌との、二つの世界がそれぞれに道に通じており、全てのものには二面がある。道とは神的で美しい世界と考えるのは誤っている。老子の老は、老獪なしたたかさを意味する。

玄(げん)とは、くらいこと。玄人は、くらいところが見える人のこと。くらいところとは、普通の人の見ることのできない、例えば人間の心の中や、「道」などのこと。

老子は絶対自由の境地を説いており、これは人間が究極的に求めるもの。

■感想
ことばでは本質は伝わらないということについては、私は二面あると思う。一方では確かに、ことばや、名前のついたものに頼りすぎることは硬直した考えであって、生命が無いと感じる。このことについて他の窈窕会メンバーが言っていた例では、新聞にこう書いてあったからこれはこういう問題だと決め付けたり、女子高生のエッセイを出版したら、こんな下手な文章はダメだという批判があったりするらしい。

しかし一方では、ことばには人を導く謎の力があるというのが私の考えで、例えば座右の銘を生きる指針とすることができたり、窈窕会は「老子」のテキストから学ぼうとしている。また先ほどの女子高生のエッセイの例で言えば、その下手くそな文章にはしかし、編集者が出版したいと考える、何か輝きがあったのだろうと想像する。

田口先生によると、このことが書いてあるのが、テキストの、
「故に常無は以てその妙を観んと欲し、常有は以てその徼を観んと欲す」
という部分で、やはりことばからは、「妙(妙なるもの)」も見えれば「徼(混沌)」も見えるという、その二面あることが書いてある。ああ言った、こう言った、そうは言っていない、と言葉尻にこだわるほど混沌に陥ってゆくが、その同じことばが、人を「妙(妙なるもの)」へと導くこともある。

神的で美しいものと、ごちゃまぜで汚い混沌との、二つの世界がそれぞれに「道=宇宙の根源」に通じている、というところで私が思ったのは今読んでいる「古事記」で、神々の世界での愛の物語は確かに美しく描かれているが、同時に嫉妬や策略、暴力や醜悪さもすさまじく、そこに物語としての懐の深さがある。別のメンバーはこどもはかわいらしい一方で、貪欲であったりする例をあげていたが、似ていると感じた。

最近私はinner voiceより、着物を着てお茶でもやれと指令を受けていた。お茶を習うのはともかく、着物とか着れないし、第一東京の家には着物とか無いんですけど、と理性が口答えしたところ、着付けも習え、着物は無きゃ借りるか名古屋から送ってもらえと即答された。どこで習うかは薔薇棘メンバーに聞けと言われていた。

なぜinner voiceがこんなことを言うのか、仕事を離れて心を落ち着けろという意味なのだろうか程度にしか自分では分からなかったのだが、今日の田口先生の話と窈窕会メンバーの話から、茶の湯は「道=宇宙の根源」とつながるための手段であることが分かった。なお着物については、やはりできれば着た方が体の芯が定まり、宇宙との対話がしやすくなるのだそうだ。

人と話をするときには、何を言ったかではなく、何を言わなかったかに気を留めろなどと言うが、相手を感じることが大切で、これは私の場合、今すぐに実践して習慣にしなければならないようだ。その時に何を感じるかを基本として、何でも新鮮に見られるような心身を保つことは、やはりとても大切で、それは自由とか、幸福に繋がっている。

老子道經・養身第二

■養身第二
天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。是以聖人、處無爲之事、行不言之教。萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。
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天下皆美の美たるを知る、斯れ悪のみ。皆善の善たるを知る、斯れ不善のみ。有無相生じ、難易相成し、長短相形し、高下相傾け、音声相和し、前後相随う。是を以て聖人無為の事に処り、不言の教を行なう。万物作りて辞せず、生じて有せず、為して恃まず、功成りて居らず。夫れ唯居らず。是を以て去らず。
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■解説
人は何かを美しいとか、ある人のことをいい人だと言ったりするが、美しいというのは汚いものとの比較で美しいと言っているだけであって、世の中にはもっと美しいものとか、もっといい人だっているのだから、「美しい」とか「いい人」と言ったところで、すぐに変わってしまうようないい加減な評価である。とかく我々は相対的・人為的にものごとを見ようとするが、本質を見るにはそれではダメ。

それよりも、絶対的な善とか美を見なければならない。絶対的なものというのは、比較できない個性のこと。自然に生きればひとつとして同じものはない。自然に生きるというのは、自分として生きること。

それなのに、他の人と同じように生きようとすると、不自由で自信が無くなり、辛くなる。老子の説く絶対自由の境地は「道」という宇宙の根源と一体感を感じて自信満々の状態。

有と無、難と易、長と短、高と下、前と後など、全てのことに両面あり、両方必要なので、絶対評価と相対評価も実は補い合う関係。片方だけでは危うい。このように知っていれば、自分と反対のものが出てきても驚かない。

無為でないといけない。無為なら、不言になる。何々は自分の手柄だとか自慢気に話したりしないし、何が美しいとかも言わない。道は万物を造っても造ったとは言わないし、生んでも所有しようとはしない。成功して終わったら、次に行く。

成功なんて出がらしの茶みたいで面白くない。そこに居続けようとする人は道が応援しない。成功してこだわらない人を道は応援する。

■感想
相対的・人為的な評価のために、不自由で自信が無く、辛いというのは、最近の私だったと思う。窈窕会の他のメンバーも言っていたけれども、会社という所は、究極的には有限の人件費の分配を決めるために評価をするのだから、個々を見るレベルでの絶対評価は可能でも、最終的には処遇を決める相対評価をせざるを得ない。

こういう枠組みの中にはめられてしまっているから、評価は悪くても辛いが、良くても救いは無い。相対評価だから上には上があり、成果は上げれば、さらに困難な目標を設定され、結局、「成果を上げた」と評価されることで、自分自身を苦しめる結果になるということが、最近の私の経験だった。

過去には上司との折り合いが悪く、評価されないことの方がむしろ多かったが、それは今ほど辛くは無かった。思えば折り合いの悪い上司は私が目立つことを快く思わないので、目立つ仕事が私に課されることが無く、比較的地味な仕事ばかりまわってきていたので、精神的にも楽だったし、おそらく仕事の内容自体も、比較的楽だったと言えると思う。上司からお小言や嫌味を言われることがあっても、そんなの適当にのらりくらりとかわしていれば終わって行った。

今回のように上司から評価されることは、私には初めての経験だったので、先ずこのことに驚いた。次々に仕事を課されることについては、意地悪でやっているのではなく、周囲に分かるように私に成果を上げさせようとしていることが、私にも分かるので何とも言えず、誰に相談することもできずに孤独で寂しく、辛く、そのことにただ耐えることしかできなかった。心が冷え切って、文章を書くこともできず、自分に何が起こっているのかよく分からなかった。

そんな風にとらわれて、自分が大変不自由な状態にあったので、「成功なんて出がらしの茶みたい」という田口先生のことばにはせいせいした。

またinner voiceが唐突に、「着物を着てお茶でもやれ」と言った意味も良く分かった。今目の前にある仕事とか表面的なものだけを見るんじゃなくて、自分を知って、もっと遠くを見ろという意味だと思う。仕事については、inner voiceは、もっと頑張れとか全て完璧にやれとは決して言わなかった。逆に、自分の無力を知れ、もっと適当にずるくやれ、できないことはできなくて良い、及ばざるは過ぎたるに勝れり、いつも勝とうとするな、と繰り返し同じようなメッセージを私に送ってきた。

つまり目の前の、ひとつひとつの失敗や成功へのこだわりを捨てて、もっと大きな目的に使われることを素直に受け入れよということを、いろいろにことばを変えて伝えてきていたのだが、私の理性や感情がどうしてもそれを理解しないために、終にことばでは伝わらないと思って、「着物を着てお茶でもやれ」と言ってきたのだろう。

これらのinner voiceのことばはいつも通り神秘的で意味がよく分からなかったのだが、最近のinner voiceの全ての謎が、第一回窈窕会で解けてしまったのは本当に不思議なことだ。

謎が解けたためか、また久しぶりに薔薇棘メンバーに会えて嬉しく、満足だったのか、特に感情が窈窕会の後はとても静かになり、いつもベットに入って体を横たえるといろいろな感情の声が聞こえやすいのだが、窈窕会の夜は体を横たえても何も聞こえず、その静寂に驚きながら、すぐに眠りについた。

なお私が本当に寂しく、辛かった時に行きたいと思った場所はヴァチカンのシスティナ礼拝堂であったことにも驚いた。東京からローマは遠い。