■ ギュンター・グラスとの往復書簡
国家がひとまとめにする戦死者の列から、遺族が(護国神社合祀を不当とする裁判などにより)家族を取り戻そうとする声が宗教の区別を超えて、大戦のすべての声と重なりうる可能性を疑わない。
脱走兵こそ、戦争の真の英雄だったのではないか。(ギュンター・グラスはドイツ国防軍の脱走兵が樹木にくびられている光景を、少年兵として見た)
世界中に広がる拒否だけが、そしていざとなったら反逆の勇気が戦争と核の脅威を終わらせるころができる。実務的な妥協では、人類の自己抹殺の加速された推移にもはや耐えられない。環境を破壊する濫伐・濫獲が原子力の妄想と肩を並べている。生徒を勇敢な子どもにする初等教育への願望を共にする。たまたま生き延びた私たち老人、気まぐれから戦争のお目こぼしにあずかり、自分の存在の偶然性を意識した私たちは、これからも責任を負わねばならない。
人類が生き延びうるなら、それはそのように決意したからだ(サルトル)
王様が裸であることをあきらかにする子どもの徳が、いままさに習慣とならねばならない。
■ ナディン・ゴーディマ(南アフリカの作家)との往復書簡
作家の主題はかれ自身の時代についての意識であるから、ある意味で作家は主題の方から「選ばれる」
いまや世界は巨大な暴力におおわれている。日本の子どもらへの暴力への傾向も、この国のものではない。世界中の子どもらが、感受の力と時代意識において、巨大な暴力をうつす鏡だし、小さなモデルでもあるのだ。かれらを向こう側に置くことはできない。われわれすべてが同じ側に立って、かれらの有形無形の訴えを聞きとり、かれらとともに暴力の根源へと立ち向かうほかにない。
(「サカキバラ」の事件など、子どもによる暴力的な殺人事件について)
殺人をおかした子どもたちにはある能力が欠けています。それは他人の肉体が被る痛みと死を感受する能力です。これこそ「少年たちの内面」で起こっている変化です。
自己の尊厳を大切にする誇りの力が子どもたちには本来そなわっているのなら、こうは言えませんか。この力は同時に、大人の男たちや女たちのなかにもまだ残されていて、ただ眠っているだけなのだと。この恢復する力を、私たちのこの時代状況のなかに、どのように解き放てばいいのでしょうか。
人間われらの正しさが悉く歓喜し発効し われらの星からの贈物となる日のきたるまで (オーデン)
近代化以降、日本人がアジアにおいて自己拡張するにあたって発揮した暴力や核兵器の巨大暴力をあわせ論じる人はいない。日本をおおう「空気中の暴力」がまずどのように醸成されたかをかえりみることは避けられている。
死、暴力、痛みの生なましさと重さをメディアの表現者は子どもだけでなく大人にも示さなければならない。また想像力を重視すること。死、暴力、痛みへの想像力を呼びさます表現をメディアがなしとげているか。(例えば文学作品を映像や音声で提供する)
子どもたちはかれらの生きている社会においてそこに実在する巨大な暴力をうつす鏡であり、また暴力そのものの小さなモデルである。
私はありのままに現実を見つめ、それでも希望を捨てない(ナディン)
■ アモス・オズ(イスラエルの作家)との往復書簡
もし希望があるとすれば、それは想像の力だということ。自分を相手の立場において想像できる力だ。
(中東和平について)何よりも忍耐だ。近道はない。
次の世紀の世界にもっとも切実に必要なものとして、寛容の精神がある
理想家は、妥協という言葉を嫌悪する。しかし人生には無数の妥協がついてまわり、妥協の反意語は潔癖ではなく狂信主義と死。
ユーモアのセンスを持った狂信主義者はいない。一番の危険は銃や爆弾、政府や軍ではなく人間の心。攻撃性、狂信主義、独善性、過剰な献身、想像力の欠如、人の話をきく耳を持たないこと、笑いの欠如、とくに自分たち自身を笑えないこと。ユーモアのセンスは相対主義を内包している。
小説は、作者と読者が連れだってゆく、恥ときまり悪さに満ちた領域への旅。
■ マリオ・バルガス・リョサ(ペルーの作家)との往復書簡
絶対的な真実があると信じることが、人びとの残酷さの源になっている。文学の重要な働きは、人間性の理解を深めること。良識や感性を養い、微妙な差異やあいまいさを察知する力を読者に伝えることで、狂信主義と対抗できる
日本が核武装することは絶対にあってはならない。アジアと世界に向けて長続きする平和構想を自立して作り出さねばならない。そのふたつが、次の世紀の最初の十年間は生きているはずの私の願いです。長い経験から徹底的な無力を自覚していますが、あきらめてはいません。
(大江健三郎の願いは)純真さ(イノセンス)という人間らしさへの信頼から出ている
(19世紀ブラジルで起こった宗教的反乱で共和国を相手に不可能に近い戦闘にかかわった「ライオン」は障害を持っていたが字を書くことができた)ペンと紙を使って生きることの意味を探しながら、孤独で困難な戦いをした者がいたのを知って感動した
■ スーザン・ソンタグ(アメリカの小説家)との往復書簡
同時多発テロは超大国への攻撃であって、自由に対する攻撃などではない
理想的には作家、真剣な作家のやることは精神的な死の状態と戦うことです。共同体の気楽な生活にたてつきながら毎日みずからの魂と、自己と自分の母国との関係を蘇生させることです。
(大江健三郎は「宙返り」の広告用のことばに、≪いま私は小説に、「魂のこと」をする場所を作りたい。それもリアルに≫と書いた。)
「魂のこと」とは、若者たちが、精神においても感受性においても生きる技術においても「真剣であること」をつらぬき、それらを統合しようとする時、現われてくる。「魂のこと」をする場所とは、そのための小さな共同体。私はこの国に「柔らかなファシズム(傍点)」の網がかけられる時、若者たちが国境の外へインターネットの窓をあける、そのような共同体を夢想します。
(小説家とは知っていることを書くものか、知らないことを書くものか?大江健三郎は「宙返り」で知らないことを書いた。)
次の四半世紀に、この国に「新しい人」が現れなければならない、と私は書きました。
(ドイツ外相ヨシュカ・フィッシャーの内省)
ドイツはこれ以上戦争とアウシュビッツを起こさないことをスローガンとして掲げてきたが、いま苦痛とともに自覚せざるを得ないのは、戦争それ自体がアウシュビッツを引き起こすのではないこと。場合によってはアウシュビッツを阻止するには、たったひとつしか方策がない。それは戦争だ。
文学の責務は良心と道義的な覚醒に向けて、不正に対する憤りと被害者に寄せる共感に裏打ちされた敏感さの拡張に向けて、目覚ましのベルを鳴らす工夫をすること。
作家という独自の意識のインターネット。世界をまたにかけて啓発、精神的滋養、思考や感情のモデルを探し求める境界線の無い文学と真剣さの共同体。ベネディクト・アンダーソンはすべての成員が顔をあわせて触れあうことのできる以上に大きな共同体は全て「想像の」共同体だと言った。
「魂のこと」をする場所は、まわりを取り囲むひどい文化と妥協と毒からひきこもる場所。ただし実際の場所である必要は無い。
パスカルが沈黙と呼んだ、人間以外のことどもの無限の大きさと無頓着さに気づく経験。
作家に期待するのは、複雑な見方を明晰に言葉で述べること、もっと大きな共感をもつよう、鎮魂の姿勢を整えるよう、エクスタシーをたたえるよう、駆り立ててくれること。
■ テツオ・ナジタ(シカゴ大学社会学部教授)との往復書簡
1726年の懐徳堂(身分制度にとらわれぬ商人たちの学問所)での最初の講義で三宅石庵は「仁」を《人間の寛容さ、同情、慈悲心の基礎》、「義」を《精確であろうとし、それゆえ公正で原則に基づくものであり、またそれゆえ恣意を排そうとする精神的な能力に関係している》、商人のもとめる「利」はそこから生み出される、やはり道徳的なものなのだ、といった
他者の苦痛をくみとる「仁」、フェアな精確さの「義」
自国の歴史を単純化せず、多様に、リアルに見る。懐徳堂の時代の豊かさ、その魅力的な知的構造体を学ぶことは、ポジティブな楽しみに満ちている。
中井履軒は、すべての人間の倫理的原則は、政治もふくめて己の知るところへの確信とそれに従っての行動にある、と強調した。「誠」とは、「言を成す」こと。
山片蟠桃は神である天皇が国の起源であるとする国学の主張をしりぞけ、非論理的でまやかしであると非難した。蟠桃は真実の知識のみを追求することこそ知的自主性と可能性の基礎となるという事実を思い出させてくれる。
安藤昌益は男も女も「人」としてすべて同一であるとして、急進的な理想社会<自然の世>を説いた。
日本の歴史は、比較の始点を加えることで、単に日本史として扱うよりも、はるかに深い意味が生じる。
人間の徳は「天」からのみ与えられるもので、政治的操作を超えている(荻生徂徠)
■ チョン・イー(中国人亡命作家)との往復書簡
強く悔恨し、それを倫理的な生き方の基幹におくこと。私は二十一世紀を日本において担う若い人たちに、この力こそを自分のものにしてもらいたいとねがいます。
(エミグラントとなるよう定められたことに感謝している)
《わが神に感謝しよう!あなたが誕生から死まで私を流浪の旅に出そうというのは、この啓示を与えるためであろうか?そして家もなく国もなく洗うが如き赤貧の私に文字ばかりを残したのもあなたなのだろうか?私はついに知ったのだ。象形文字は誰にもどうにも奪うことのできない私の永遠の祖国であることを。私がこの文字を背負って流浪しているのは、祖国とその苦難の史詩を背負っての流浪なのだ。かくの如き恩寵を賜った私に、さらにどれほどの孤独と彷徨があろうか?》
「懺悔」は宗教的「原罪意識」が源であり、「原罪」とは人の弱点に対する深い洞察。人は生まれながらにして罪を犯している。この世にひとりとして義人はいない。
原罪は外来のものだが仏教にもほぼこれと対応する「業」、すなわち前世に犯した罪という言葉がある。
私たちの世代の臆病、怠惰、想像力の貧困、連戦連敗により、国家は今もなお専制腐敗の暗雲に覆われています。
《権力の柱に小便を引っかけ、王侯の玉座を鋸でひく》 ギュンター・グラス
■ アマルティア・セン(インドの経済学者)との往復書簡
人はだれでも、「自ら価値を認める生き方をすることができる自由」をもち、そうできる「潜在能力」があり、開発とはその自由を増大させること
「9・11」の同時多発テロは、文明の衝突ではなく、「持たざる者」の「富める者」への怒りである
懐徳堂、経済と倫理を軸とした学問
社会の制約に妨げられず達成する自由
教育されることは自分の「問題」が全体のどこに位置するのかを教わること
人は思い込みや自分の作った機械の奴隷となりがち
日本は明治期に工業化を達成していなかったにもかかわらず、百年も早く工業化していたヨーロッパ諸国よりも高い水準の識字率をすでに達成していた
経済学と倫理を組み合わせようとする態度は、日本経済史の特筆すべき特徴
「ギーター」の道徳的な論争:アルジュナとクリシュナの対話
多くの人々が死ぬ戦争を深く懸念するアルジュナに、クリシュナは反論し、誰しも結果とは無関係に自分の義務を果たすべきだと主張する。一人の戦士として、あるいはアルジュナを頼りにしている陣営の将軍として、自らの義務の遂行から浮き足立ってははらないと。
《ご無事で(fare well)、とは言わぬ、進め(fare forward)、航海者よ。》 エリオット
■ ノーム・チョムスキー(アメリカの言語学者)との往復書簡
(チョムスキーは)少年時代、サマー・キャンプで広島で起こったことを聞き、それを祝う催しに耐えられず、ひとり森に入って夕暮れまで座っていた
(文明開化された同胞は)鎖に繋がれて享受する平和と安寧について、絶えず自慢する。
それを失った人びとからは蔑まれる唯一無二の財産のために、快楽も、安寧も、富も、権力も、さらには生命そのものまでも犠牲にする人びとがあること、また、自由に生まれついた動物が囚われの身を潔しとせず、檻の格子に頭から体当たりすること、また、専ら独立を保たんがために、群れをなす裸の蛮人がヨーロッパの人びとの官能的快楽を蔑み、飢えと、火と、剣と、死に耐えるのを目の当たりにすると、自由について奴隷が頭で考えることなど必要ないと感ずる。(ルソー「人間不平等起論)
アフリカに援助ではなく補償を呼びかける者が誰もいない事実は多くを物語る。ヨーロッパとアメリカが数百年にわたる征服と簒奪、隷属と略奪によってアフリカを破壊してきたことは周知のとおり。(アフリカ、ハイチ、ニカラグア、グアテマラなど、内政干渉を受けた国々は発展が遅れた。百五十年前の西アフリカと日本の状況に差は無かった。)
アメリカはかつて諸国が商業的利益の保護と向上のために海軍力を増強したように、利益と投資保護のために軍事行動による宇宙支配を展望している。
新古典主義的市場では、その「集票力(=市場にもたらす富または労働力)」に応じて評価され対価が支払われる。「集票力」を持たない者の利益は理想的な市場ではゼロと査定される。このような市場では例えばこどもは自らの価値を表現することができない。従って、将来の世代に及ぶ結果を無視した短期的な富の最大化が正当かつ合理的となる。このような「合理性」は病理だが、これは個人ではなく制度を評したもの。
想像力のみが子どもに他者の痛みを理解させる。起ころうとしている・起こっている《恐ろしい事実を考えること、ましてやそれに対して何らかの償いをすることができない》特権的な国の人間について、あなた(=チョムスキー)が嘆きと怒りをルソーとともにされる時、日本の知識人の現況について思う。私はこの国の若い人たちに、自立した知識人となることを求めたい。恥を自覚し、遠い場所での悲惨、まだ生まれぬ者らにとってのこの国を想像するために。
■ エドワード・W・サイード(アメリカ人思想家)との往復書簡
他者の考えに耳を傾ける人がいる限り、未来に希望はある
「イスラム」、何百もの異なる言語、多様な文化と伝統を持つ十三億もの人びとを人括りに表すには、単純すぎて意味のない言葉
「テロリズム」という言葉が、概念の内容も不明確なままに、気に入らないもの、邪悪な行為、当局の敵などを指して用いられているため、力の優勢を背景とした無頓着と破壊性が引き起こした抵抗や、自暴自棄の行為かもしれぬものが見えにくくなっている
アメリカ人の思考では、南アフリカの解放戦争とパレスチナとの類比や、ネイティヴ・アメリカンの恐ろしい運命とパレスチナとの類比は、断固としてありえない。これらの類比をつくり出すために、わたしたちはまず何よりも自分たちを人間として認識させる必要がある。
世界の多様な場所での具体的な「人間」の理解がどれほど困難か
イタリアの哲学者ジャンバティスタ・ヴィーコは、人間の精神は、神でなく人のものであるがゆえに、限界があり、過去やよその社会についての知識はすべて不完全で、精神そのものと同様の限界があるという悲しい宿命を負っていると気づいた。過去や他者を理解しようとする努力はすべて、実体ではなく、近時のものにとどまる定め。
強大な権力は知識と錯覚され、敵を捏造する(i.e.「ならず者国家」、「悪の枢軸」)。どの社会も外部の敵を必要とする。
■ ジョナサン・シェル(アメリカの反核運動化)との往復書簡
あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちだけに向けておくれ。(ウォレ・ショインカ)