2009年6月21日 (日)

感想(仁徳第三十五・微明第三十六・爲政第三十七・論徳第三十八)

■とても興味深く、役立ったこと
1. 道は淡々としたもの
美しい音楽やおいしい食事には行き過ぎた人も戻ってくる。でも「道」は音楽や食事のようにおいしかったり、美しく聞こえたりはしない。道は淡々としたもの。でも実は、淡い味は一番の美味。道を用いれば無限。ほどほどが最上と知る。うんといいと悪い方にも行くから、中庸を心がける。

2. 反対をやる
何か欲しいと思ったら、何かをすてると得られる。反対をやるといい結果が出る。だったら自分からそれをやればいい。それが生きてゆくコツ。

3. 10年続ける
AもあればBもあるといった、柔弱、多様性を認めるリーダーでないとこれからはダメ。そうなれるためには謙虚さ、寛容さが必要だが、そうなるためには自己の確立が必要。自分に自信が持てるとできるようになる。
儒学者の佐藤一斎は、「一灯を下げて暗夜を行く、暗夜を憂うることなかれ、ただ一灯を頼め」と言ったが、「一灯(いっと)」とは「私にはこれがある」と思えるもののこと。世界広しといえど、これは私しかないというものをひとつでいいから持つ。石の上にも3年というが、10年も続けたら3年の3倍。オンリーワンを持つこと。

4. 「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く
無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、道は何もしていないように見えるけど、為さざるは無し(できないことは無い)。これは老荘思想、老子のすごいところ。道のありようは、「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く。
自分の人生のテーマはいつも持っていて、すぐやろうと思わない。長期的な目標は、何となく持つのが生き方のコツ。不可能と思っても、無為になれば、為さざるは無し(できないことは無い)。

5. 嫌なことも、ありがたいと思えば卒業
嫌なことが来ないように祈るのはダメ。嫌なこと来い、もう嫌なことは無いという人生じゃないと。うんと嫌や奴に会うとか。ひどいことを早く経験した方が、後は極楽。嫌なこと、嫌な奴は貴重。嫌だと思っている間は消化していない。ありがたいと思えば卒業。

■感想
道は美しい音楽やおいしい食事のように、行き過ぎた人でもそのために戻ってくるような、分かりやすい華やかなものではなく、つい見過ごしてしまいそうな淡々とした素朴なものという説明に、なるほどなと思います。

無為であること、無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、何もしていないように見えるけど、実は道の力でできないことは無いという老子の教えは、これから生きていく上でずっと覚えておこうと思います。

窈窕会の始まった2007年9月頃の自分のブログの文章を読むと、ちょうどシティバンクに入社して1年が経過し、仕事も増えて、私はそのことに随分苦しんでいたようでした。会社で認められることは、分かりやすい華やかなことかと思いますが、私が望んでいたのはそれよりも、自分の人生を自分の望むように淡々と素朴に、どうということなく生きることであったように思います。

「石の上にも3年」と言いますが、早いものでシティバンクに入社してもうすぐ3年になります。嫌なことは、来ないように願ってもムダなことで、わーわーした徼の世界も、存在するんだから、そこで人がどのように行動しているか、ちゃんと見ておけと道に言われているような気がします。ずっとこの世界にいなくてもいいかもしれませんが、美しい妙の世界も、混沌と喧騒の徼の世界も、両方知って「AもあればBもある」といった多様性を受容できる人間になる方が確かにいいように思います。

一方で自分がやりたいと思うこと、自分のテーマはいつもぼんやり素朴に持って、長く思い続けて少しづつ行動しようと思いました。

論徳第三十八

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無爲而無以爲。下徳爲之而有以爲。上仁爲之而無以爲。上義爲之而有以爲。上禮爲之而莫之應、則攘臂而扔之。故失道而後徳、失徳而後仁、失仁而後義、失義而後禮。夫禮者、忠信之薄、而亂之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫處其厚不居其薄、處其實不居其華。故去彼取此。
---------------------------------------------------------
上徳(じょうとく)は徳とせず、ここをもって徳あり。下徳(かとく)は徳を失はざらんとす、ここをもって徳なし。上徳は無為(むい)にして、もって爲せりとする無し。下徳はこれをなして、もって爲せりとするあり。上仁(じょうじん)はこれをなして、もって爲せりとする無し。上義(じょうぎ)はこれをなして、もって爲せりとするあり。上礼(じょうれい)はこれをなして、これに応ずるなければ、すなわち臂(ひじ)を攘(ひ)いてこれに扔(よ)らしむ。故に道を失いてのち徳、徳を失いてのち仁(じん)、仁を失いてのち義、義を失いてのち礼(れい)あり。それ礼は忠信の薄(はく)にして乱の首(はじめ)なり。前識者は、道の華(か)にして、愚の始なり。ここをもって大丈夫は、その厚に処(お)りてその薄きに居らず。その実に処(お)りて、その華に居(お)らず。故にかれを去(さ)りてこれを取(と)る。
---------------------------------------------------------

徳→仁→義→礼の順番が人間の順番。処世訓、仁を最高とする儒教を、道家が批判している章でもある。

上徳(いちばん徳のある、りっぱな人)は、自分が徳があるとは思っていない。下徳の人は徳を失わないようにしているから、徳は無い。上徳の人は、無為だから、何とかしれやろいうということは無い。下徳の人は「やってやろう」というわざとらしい感じ。上仁は何かして、有為でやるけど、わざとらしいということは無い。上義はやったら、「やった、やった」とわざとらしい。上礼は何かして、徳のある振る舞いをしたのに、誰も徳があると言ってくれなければ、「何で」と押し付けがましい。

信じられることが薄いと礼が言われる。情報を人より早く得ている、評論家みたいな人はあだ華で、愚かの始め。大丈夫は徳が厚く、実質的で、あだ華には居ない。だから礼や知を去って、道を取る。

▼ 理想的なチームにはルールは無い。就業規則無いと守らないとかは、嘆かわしい状況。プロの世界は決まりが無い。気が読める、心が読めるのがプロで、玄人。会社は規則づくめになっている。

▼ 「心に欲するところに従えども則を越えず」が立派な人間。

▼ 朝礼を止めたいという会社が多いというが、非礼・無礼でいいのか。「天道健やかなり」と言って、天の働きは健やかで秩序立っている。夜が来て朝が来て、新鮮さを取り戻す。その運行に学ぶ精神を礼という。

挨拶はなぜ必要か。点呼は、人員がそろっているか確かめること。挨拶は、「私生きています」という宣言。

爲政第三十七

道常無爲而無不爲。侯王若能守之、萬物將自化。化而欲作、吾將鎭之以無名之樸。無名之朴、亦將不欲。不欲以靜、天下將自定。
---------------------------------------------------------
道は常に無為なれども、而(しか)も爲(な)さざる無し。侯王もしよくこれを守らば、万物まさにおのずから化せんとす。化して欲作(おこ)らば、われまさにこれを鎮(しず)むるに無名の朴(ぼく)をもってせんとす。無名の朴もてせば、またまさに欲せざらん。欲せずしてもって静かなれば、天下まさにおのずから定(さだ)まらんとす。
---------------------------------------------------------

無私無欲で人為的にしないで流れをくんでやると、道は何もしていないように見えるけど、為さざるは無し(できないことは無い)。これは老荘思想、老子のすごいところ。道のありようは、「無為」を守れば、全て自らいい方向に行く。

物事が発展すると、「もっと良くしよう」と欲が起きるけど、その欲にブレーキをかけるには、最初を思い出す(朴:山から切りたての材木、切り出したての木)。自分がポジションについていたとしても、最初からそうだったか自問する。最初はただひたすら下っ端で働いていた新人だった、そのことを思えば、ここまで来たことを十分と思う。

冷静になればなるほど世の中の流れが分かるから、いろんなことが定まってゆく。
冷静に見る。恵まれない時とか、よくない時を思って変な欲は鎮める。そうすると、これでいいじゃないかと思える。大病してもうかえって来れないと感じた時があれば、生きているだけで100点と思う。

▼ リラックスしているときにいちばん力が出る。野球で打つときもそう。

▼ 自分の人生のテーマはいつも持っていて、すぐやろうと思わない。長期的な目標は、何となく持つのが生き方のコツ。不可能と思っても、無為になれば、為さざるは無し(できないことは無い)。

▼ この世のものは全て生成化育している。あなたが手を下さなくても、そうなる。ほっといた方がいいことが多い。

変化はこの世の必然。世の中は猛烈に動いている。それをどう利用するか、動いている方向へ、方向へと行く。資本主義がどうかと思えば東洋思想に向くとか、その変化をピックアップする。

▼ 意欲も欲望だから、否定はしないけど、ブレーキは必要。

▼ 面白いものは難しい。難しいものが面白い。だから難しいを楽しむ。いきなり楽しむのは難しいから、日常の訓練が大切。エベレストに登ろうと思って富士山に登れば簡単。大きな目標を持つ。富士山が目標なら、富士山に登るのは大変。

自分に向いた気の持ち様を発見するのが生きるコツ。だんだん楽に、面白くなるように訓練する。仕事の訓練ではなく、生き方の訓練。江戸時代は生き方を教えていたからすごい。

嫌なことが来ないように祈るのはダメ。嫌なこと来い、もう嫌なことは無いという人生じゃないと。うんと嫌や奴に会うとか。ひどいことを早く経験した方が、後は極楽。嫌なこと、嫌な奴は貴重。嫌だと思っている間は消化していない。ありがたいと思えば卒業。

2009年5月 3日 (日)

「生物と無生物の間」 講談社現代新書 福岡伸一著

---------------------

死んだ鳥症候群。私たち研究者の間で昔からいい伝えられているある主の致死的な病の名称である。

私たちは輝くような希望と溢れるような全能感に満たされてスタートを切る。見るもの聞くものすべてが鋭い興味を掻きたて、一つの結果が次の疑問を呼び覚ます。私たちは世界の誰よりも実験の結果を早く知りたいがため、幾晩でも寝ずに仕事をすることをまったく厭うことがない。経験を積めば積むほど仕事に長けてくる。何をどうすればうまくことが運ぶのかがわかるようになり、どこに力を入れればよいのか、どのように優先順位をつければよいのかが見えてくる。するとますます仕事が能率よく進むようになる。何をやってもそつなくこなすことができる。そこまではよいのだ。

しかしやがて、最も長けてくるのは、いかに仕事を精力的に行っているかを世間に示すすべである。仕事は円熟期を迎える。皆が賞賛を惜しまない。鳥は実に優雅に羽ばたいているように見える。しかしそのとき、鳥はすでに死んでいるのだ。鳥の中で情熱はすっかり燃え尽きているのである。

---------------------

肉体というものについて、私たちは自らの感覚として、外界と隔てられた個物としての実体があるように感じている。しかし、分子のレベルではその実感はまったく担保されていない。私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出て行く分子との収支が合わなくなる。

---------------------

生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である。

---------------------

秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。

---------------------

エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことなのである。つまり流れこそが、生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っていることになるのだ。

---------------------

遺伝子ノックアウト実験は、個体に何の異常も起こらないものが多々ある一方で、誕生を迎えないまま胚がその分化を止めてしまうような致死的なケースも多数あった。致死的なノックアウト実験が示すことは、その遺伝子が、発生上欠くことのできない重要なピースであることだけである。それがどのように必要とされるのかわからないままプログラムは閉ざされてしまうのである。

このような致命的な欠落ではなく、その欠落に対してバックアップやバイパスが可能な場合、動的平衡系は何とか埋め合わせをしてシステムを最適化する応答性と可変性を持っている。それが"動的な"平衡の特性でもある。これは生命現象が時に示す寛容さあるいは許容性といってもよい。平衡はあらゆる部分で常に分解と合成を繰り返しながら、状況に順応するだけの滑らかさとやわらかさを発揮するのだ。

---------------------

生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間もすでに完成された仕組みなのである。

これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。生命と環境との相互作用が一回限りの折り紙であるという意味からは、介入が、この一回性の運動を異なる岐路へ導いたことに変わりはない。

私たちは、自然の流れに跪く以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。

---------------------

2009年4月 4日 (土)

「会社に人生を預けるな」 光文社新書 勝間和代著 2

薔薇棘のメーリングリストで勝間さんがこの本をメンバーには献本してくれるというので、ご本人に「ぜひ下さい」とメールを送ったところ、その2~3日後に出版社から送られてきた。「忙しい人は仕事が速い」とよく母が言っていたが本当だと思った。

私自身は2度の転職の末、人生を預けようにも預けようの無い外資系金融企業に漂流したため、会社に人生を預けることは、希望しても不可能な状況にある。制度や福利厚生面では今の会社はとてもいい会社だと思うが、雇用保証だけは、無いと考えておくのがやはり妥当だと思う。

私は特に上昇志向も無く、報酬面での欲も大して無いが、報酬の市場性については20代の後半くらいで気がついた。それ以来、提供する労働に対して不当に安く使われることは嫌だとは考えるようになった。つまり私が提供する労働を高い値段で評価してくれる、条件の良い会社で働く方が良いという考え方だったため、今の場所に流れ着いたのはその意味では当然だったかもしれない。

日本企業の報酬水準は市場ではなく、年次で決まる。だから新卒採用で企業に入り、黙って人並みの(要するに年功序列的な)昇格・昇給を繰り返していると20代後半頃から30代にかけて、提供できる労働の価値が報酬を上回る時期が構造的に存在する。

これは不公平な話なんで、気がついたら会社に猛烈に文句を言って給料を上げさせるか、もしくは転職をするか、何らかの手段で意識的に調整する方向で動いた方が健全だ。・・・と考える私は真っ向から終身雇用が前提とする年功序列の考え方に反抗的なようだが、まあその通りで、報酬は年功序列ではなく、基本的には、仕事の内容と市場の水準で決まるべきものと考えている。

私は外資金融に転職して納得のいく報酬の代わりに雇用保証を失ったとは思うが、外資系企業には流動性のある人材市場があり、ノウハウを持ったエージェント(ヘッドハンターとか)も存在する。個人的にも、2度の転職の経験でひとつのドアを閉めると次のドアが開くことを知った。だから雇用保証が無いことを私はそれほどマイナスには考えておらず、現実の企業の栄枯盛衰サイクルのスピードを目の当たりにして、会社に雇用保証をどれだけ求めるかは個人の選択も問題もある程度はあるとは思うが、あんまし保証が無かったとしても、それは会社が無責任ということではなく、時代の必然ではないかと感じている。

この本が指摘しているのは、私も身を持って感じている経済環境の変化の早さと終身雇用という静的な日本の雇用慣行のギャップが日本社会に生み出している弊害で、確かに、経済状況がどのように悪化しようと、今の日本の法律では、事実上、会社は社員を解雇することはできない。

リストラとかいっぱいやってるじゃんと思うんだけど、あれは解雇ではなく、大抵の日本企業がやっているのは早期退職制度で、社員の自発的な早期退職の希望に基づいている(少なくとも、そういうことになっている)。外資系企業がやっているのも多分大半はアウトプレースメントのオファー(不況で社内には仕事が無いので、社外で仕事を探してくれという打診)であって、あくまでも対象者の同意を前提としているから、一方的に解雇しているのではない。

企業にとって合法的にできるのは派遣社員とか、契約社員とかの非正規従業員の契約期間満了に伴う、いわゆる「雇い止め」による解雇だけで、それでさえ、社会問題とされ、その合法性が問われているケースもある。

この現状に、「終身雇用制の緩和、正規雇用と非正規雇用の均等待遇、総労働時間規制の三つをセットで、国が行え」というのが著者の主張で、確かに今の正規・非正規雇用者の待遇の差には、公平さを欠くものがあり、かといって経営者の視点から見たときに、経済状況の変化に応じた労働者数の調整が現実的には必要であれば、終身雇用という慣行を考え直さざるを得ない。

ここで著者が提案しているのは、国と企業と個人の間でリスクをもっと分散しましょうということでもあると思う。終身雇用制度は、若い間は上がりにくい賃金や長時間労働など、個人にとってのリスクもあるが、雇用の継続だけは保証されている。だから不況になっても正規雇用社員の人員削減はできないというリスクは、企業が丸抱えしている。一方、非正規雇用の人たちは、雇用の継続が保証されず、個人が経済変動のによる雇用喪失のリスクをひとりで負う形になっており、バランスが悪い。

さらに総労働時間規制も視野に入れ、一人当たりの総労働時間規制を決めることによって、雇用される機会のある労働者の人数を増やすとともに、ワークライフを推進するというのが著者の考えで、総労働時間規制については私ももっと知りたいと思った。

「お上はかなりテキトー」、「大企業の経営者は、残念ながら、大半はめまいがするくらい凡庸です」の率直な指摘には爆笑。でも何事も、お上や上司に任せてしまうのではなく、最終的には自分で考えて判断する習慣を持つ必要があることは同感。

「会社に人生を預けるな」 光文社新書 勝間和代著

(p26-27)
日本では判例上、人材を正社員として一度雇ってしまうと、解雇については次の四つの要件を満たすことが求められており、事業を撤退する、あるいは事業のパフォーマンスが悪いからといった理由ではなかなか解雇できません。

【整理解雇の四要件】
1.人員削減の必要性があること
会社が経営危機に陥っていて、人員整理の必要性があること。

2.解雇回避の努力を行っていること
整理解雇をするまでに、新規採用の中止、希望退職者の募集、配置転換・出向など、解雇を回避するための努力をしていること。

3.視営利基準と人選に合理性があること
整理解雇の対象者の選定基準が、客観的かつ合理的であり、また具体的適用も公平であること。

4.解雇手続きに妥当性があること
整理解雇対象者や労働組合に対して、整理解雇の必要性やその内容(時期・規模・方法など)について十分に説明し、相手の納得を得られるよう、誠意をもって協議していること。

(p51-52)
・・・特に大維持世界大戦後の高度成長期、企業側が社員を解雇しようとした時、プロローグで触れたような整理解雇の四要件(業績の悪化、回避努力、人選の合理性、手続きの合理性)を盾に企業側が裁判で負け続けたのです。
 そのため、日本の多くの企業が整理解雇を可能な限り避けるようになり、業績が悪くなっても正規雇用者はなるべく退職させないという制度が定着していきました。
 さらに、裁判で企業側が負け続けたため、本当は正当な手続きで解雇ができる可能性があったにもかかわらず、企業側がさらに訴訟で負けるリスクを恐れ、解雇という手段を取らなくなっていったという背景があります。そして、現在のように、なるべくギリギリの正社員で仕事を回しながら、非正規雇用でバランスを取るという労働形態が一般的になったのです。

(p66)
(企業が判例などを理由に終身雇用をあえて崩さなかった)
 その結果、雇用の流動性が著しく制限され、特に、こうした男性の働き過ぎ、女性の仕事のなさ、最近では中高年の働き過ぎ、若年層の仕事のなさ、という不均衡な状態が生まれているのです。

(p66)
私はよく、「外資系の給料はなぜ高いのか」という質問を受けます。その答えは単純で、多くの外資系企業では日本の終身雇用制にあたるものがないためです。すると、雇用の流動性がある職場になるので、まず「できる」人には高い給料をあげないとすぐに出ていってしまうということになります。これは逆にいえば、「できない人」をどんどん整理解雇するか、整理解雇しないまでも給料を切り下げたり、あるいはパフォーマンスの改善を要求できるということになります。
 一方、日本の多くの企業に見られる、簡単には人を解雇できない制度の中では、「できる人」もどうせ出ていかないから給料なんて安くていいということになり、「できない人」も食べさせなければいけないために、できる人の給料を上げることは合理的ではなくなります。したがって両者を比較した場合、どちらの給料が高くなるかは自明でしょう。

(p82 - summary)
「日本では高年齢の男性しか活躍しづらく、しかも、その男性たちも疲弊している」という悪循環を断ち切るためには、終身雇用制のみなおしが必要。政府も対策として正規と非正規の待遇格差をなくそうとして現在では主に非正規の待遇を改善しようとしているが、それだけでは流動性を確保するには足りない。正規と非正規の雇用格差をなくすと同時に、正社員に対する規制も緩和し、企業にとって整理解雇をもっとしやすくする方法が必要。日本の閉塞感を打破するためのティッピング・ポイントはここにある。
 さらに、総労働時間規制も視野に入れなければならない。一人当たりの総労働時間規制を決めることによって、雇用される機会のある労働者の人数が増える。

(p142-143)
お上はテキトーだ
・・・大企業の経営者は、残念ながら、大半はめまいがするくらい凡庸です。

(自分の意見を持たない会社経営者のエピソードの後)つまり、自力で判断し、物事を作りあげるという習慣がないのです。
 それが少数派だったら私も驚かなかったのですが、大多数の組織では、実はそのような決まり方で物事が進んでいきます。すなわち、「お上」はかなりテキトーだし、たいした実力もないのです。

(p147)
(日本では世襲の首相が続き、受けられる教育は親の所得層で決まってしまう)
日本は資本主義社会ではありますが、所得の再配分や格差の是正において、決して民主的ではありません。

(p167)
(現代は自分の勤める会社がいつ潰れてもおかしくない時代。世の中のスピードやビジネスモデルの変化が速いが、企業はその変化に対応できない。)
・・・本来なら個人や国家が背負うべきリスクを日本の場合は企業が抱えている、つまり企業が過大なリスクを背負わされているがゆえに、身動きがとれずになかなか変われないということもいえると思います。
 しかし、日本の場合、企業が従業員を簡単にクビにすると、企業側が責められることが多々あります。・・・
 つまり、従業員もリスクを取らない、国家もリスクを取らない、企業はリスクを丸抱えしたままという構造になると、企業はもう身動きが取れなくなるのです。ですから、日本の企業の社長というのは、気の毒といえばとても気の毒な存在なのです。

(p168-169 summary)
企業がリスクを取らずに従業員を管理できる仕組みが非正規雇用だったが、リスクマネジメントの仕組みが従業員にも企業にも国家にも存在しなかったために、ワーキング・プアが大量に発生した。

(p172)
 私は終身雇用制の緩和、正規雇用と非正規雇用の均等待遇、総労働時間規制の三つはセットで行わなければならないと思っているのですが、それを行えるのは国のリーダーです。

(p178)
 (リスク管理の教育について)たとえばアメリカの場合、仏教でいうところの因果応報や、他人に対してなぜ貢献しなければならいのかとか、将来の可能性において、これこれこういうリスクが考えられうるわけだから、こういう行動を慎みなさいとか、彼らはモラル教育を、教会を中心とした教育と学校教育、家庭教育で徹底的に受けて育ちます。これはリスクマネジメントという観点から見た場合、非常に優れたシステムです。

(p197)
私たちがリスクをよりよく学び、管理するためには、個人においては源泉徴収・年末調整の見直し、国においては道州制の導入、企業においては終身雇用制の緩和が必要だと考えています。この三つがもし確実に実現すれば、私たちの考え方にしても、そして将来の日本人の動きについても、明治維新に近いくらいのインパクトが生まれると私は思っています。

(p212)
小泉内閣が行ったことというのは、それまで政府と企業が取っていたリスクを個人に押し付けたということです。その最大の被害者が、今、数多く存在する20~30代の非正規雇用者だと思います。

(p216)
 新卒一括採用・終身雇用制の仕組みは、社会の流動性を極端に妨げ、貴重な人的資源の再配分を妨げ、若年層の雇用を妨げ、ワーク・ライフ・バランスを妨げ、少子化の遠因となり、文字通り、私たちの幸せ・発展への「ボトルネック」になってしまっていると、強く、強く感じるのです。

2009年3月 1日 (日)

微明第三十六

將欲歙之、必固張之。將欲弱之、必固強之。將欲廢之、必固興之。將欲奪之、必固與之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵、國之利器、不可以示人。
---------------------------------------------------------
まさにこれを歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱めんと欲すれば、必ず固くこれを強くす。まさにこれを廃(はい)せんと欲すれば、必ず固くこれを興(おこ)す。まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず固くこれに与う。これを微明(びめい)と謂う。柔弱(じゅうじゃく)は剛強に勝つ。魚は淵(ふち)より脱すべからず。国の利器(りき)は、もって人に示すべからず。
---------------------------------------------------------

腕力・権力はもろいもの。鉄板の剛強と柳の柔弱さと、どちらが強いか。柳は相手にしようがない。フレキシビリティーが必要。やわらかさは命。赤ちゃんは柔らかく、年をとると体は固くなる。

柔らかさには、やりすぎ、力づくはない。勢いよく飛び跳ねるようなことはしない(魚は淵より脱すべからず)。権力は人に示すものではない。力にが限界がある。やわらかさには限界が無いから長続きする。

何か欲しいと思ったら、何かをすてると得られる。反対をやるといい結果が出る。だったら自分からそれをやればいい。それが生きてゆくコツ。

▼ AもあればBもあるといった、柔弱、多様性を認めるリーダーでないとこれからはダメ。そうなれるためには謙虚さ、寛容さが必要だが、そうなるためには自己の確立が必要。自分に自信が持てるとできるようになる。

儒学者の佐藤一斎は、「一灯を下げて暗夜を行く、暗夜を憂うることなかれ、ただ一灯を頼め」と言ったが、「一灯(いっと)」とは「私にはこれがある」と思えるもののこと。世界広しといえど、これは私しかないというものをひとつでいいから持つ。石の上にも3年というが、10年も続けたら3年の3倍。オンリーワンを持つこと。

仁徳第三十五

執大象、天下往。往而不害、安平太。樂與餌、過客止。道之出口、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。
---------------------------------------------------------
大象(だいしょう)を執(と)りて、天下に往(ゆ)く。往きて害せず、安平太(あんぺいたい)なり。楽(がく)と餌(じ)とは、過客(かかく)止まる。道の口より出(い)ずるは、淡としてそれ味なし。これを視(み)れども見るに足らず。これを聴(き)けども聞くに足らず。これを用うれども既(つく)すべからず。
---------------------------------------------------------

道とすっかり表裏一体になって人生を行けば、どういう所へ行っても危害を与えられることがない。

大胆不敵は、危険極まりない、こわいこと。細心に、臆病に生きる。「与(よ)として冬川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として四隣(しりん)を畏(おそ)るるがごとし」と言うように、氷の張った冬の川を、片足で氷をたたいて確かめながら、疑い深くわたってゆくような慎重さと、周りを恐れ、何が飛び出してくるか分からないとびくびくするような用心深さが必要。そうすると危害を被らない。

数日必要なものしか持たないから、盗られるものもないから、心の負担が無い(=安平太・あんぺいたい)。ただ平穏無事じゃなくて、心の不安が無い。財産は生命を傷つける。誰かにとられるんじゃないかとか、心配しないといけなくなる。

美しい音楽やおいしい食事には行き過ぎた人も戻ってくる。でも「道」は音楽や食事のようにおいしかったり、美しく聞こえたりはしない。道は淡々としたもの。でも実は、淡い味は一番の美味。道を用いれば無限。

▼ 素人は大胆不敵。玄人は何でも慎重。例えばシェルパとか。何が危険か良く知っている。

▼ 一杯目のお茶には、甘み、二杯目は苦味、三杯目は渋み、四杯目は淡として味なしだが、実は甘いも苦いも渋いも感じられる。人も同じ。淡として味なしには実はいろいろな味がある。それが気がつけるのは幸せ。水のおいしさとか。

▼ ほどほどが最上と知る。うんといいと悪い方にも行くから、中庸を心がける。

2009年について

田口先生に、2009年はどんな年か教えていただいた。

---------------------------------------------------------
今年は改革の年。筋を通すとき。「義」の年。
義は「犠牲」で、「犠牲」の「犠」も「牲」も「いけにえ」という意味。自分をかえりみず、他者のために働く。

去年は爆発の年だった。発展、拡大もあったけど、弊害もあったので正さないといけない。今年と来年で正さないとその次が大変なことになる。ここ2年が正念場。2年かけて人間として健全な方向へ行かないと。

2009年は、ねじれをまっすぐ正す年。

自分の社会的役割を考えてやる。正さないと2011年がえらいことに。

2009年1月 1日 (木)

2009年

(中国古典を教えていただいている田口先生に書いたメール)

毎年元旦には、本などで読んだ好きなことばを振り返ったりしながら、その1年をどんな風に過ごしたいか考えます。勉強会の記録を記した自分のブログを振り返ってみると、田口先生に中国古典を教えていただくようになってもう1年以上が経つことが分かり(2007年9月から教えていただいているようでした)、その記録をずっと読み返していました。

それで今年は、これまで先生に教えていただいたこと、去年自分で経験して学習したことも踏まえて、以下のようにできたらいいなあと感じました。

---------------------------------------------------------------
1. 見守る
大人になることは見守ること(=我慢)ができるようになること。見守るというのは何もしないことではない。よちよち歩きの子を見ているような緊張感のあるもの。見守っていると、「自ずと然り」と全部決まる。

無為は流れを見守ること。自分の閉鎖的なところを開く勇気を持って。そうすると見えてくるから、既成概念でものを見ない。気がつかないだけで、底流ではいつも流れがあるから見守る。そうすると落ち着くところに落ち着く。無になって見るとゴールもプロセスも見える。自分の思惑があると対象が見えない。人も仕事も無になって見るとゴールもプロセスも見える。

果実を育てるのに人にできることは見守るだけ。それを忘れないで、全部そういうものと思わないと。ぷーっと吹いて大きくなるんじゃない。

2. 直感的、実感的に感じることを大切にする
決め付けると不自由になるから、そのときに何を感じるかを基本に、それが本質であると知り、それを繰り返して感性で感じて暮らすと、何でも新鮮にものが見られるようになり、それが自由とか、幸福につながっている。

3. 宇宙、自然、天、道の力をとりこむ - 「自ずと然り」というゴールの設定をする
人間の力なんて、大したものじゃない。宇宙、自然、天、道の力をいかにとりこむかが重要。腕ずくには限界がある。自然の流れに上手くチームを乗せる。

「自ずと然り」というゴールの設定をすると、すーっと上手くいく。ある種、道にゆだねるところが無いといけない。道との一体感を本当に信じることができれば、力がわーっと出るとか、そいういう余地がある。おれおれ、自分自分で遊びが無いと自然の力が入り込めない。隙間を残して自然に任せる。ゆだねないと上手くいかない。人は道と融合するとものすごい力が出る。施政者はそれを恐れて、神を人の上に置き、道、天、地、王が全く同じ位置づけだとは教えなかったのかもしれない。

4. 虚心になって働く
複雑なリーダーの本質も、虚心になれば見える。思惑があると本物は相手にできない。達人と対峙するときには無心になること。気に入ってもらおう、評価してもらおう、好きになってもらおうと思わず、無心になって働く。そうするとうんと勉強になり、うんと糧になる。

5. 湛(たん)として存する
存在が説得力を持つのが究極のリーダーシップ。「湛(たん)として存する」とは水が深くたたえられた深い池や湖がそこにあるような、その人がいると何か落ち着くといった感じのこと。「心の落ち着き」は金では買えない。
---------------------------------------------------------------

去年上手くいかなかったことを振り返っての反省は、見守ること、「自ずと然り」とすることができずに、自分の想定と違うことが起こったことに驚き、不安になって、すぐに解決することを求めたことです。その経験から学んだことは、驚き不安になって、今すぐその状況を変えるために相手や状況を変えようとしても、思うような結果はさっぱり得られず、かえって表面的には人間関係が悪化し、一方で状況は何も変わらず、私の思う解決策は何の役にも立たなかったことでした。

このように相手や状況を今すぐ変えようと思ってしまうと、自分が虚心になって働くことは忘れて、相手の反応や、相手が自分をどう評価しているかばかりが気になり、自分もそれに左右されて、ますます不自由になる点も悪循環でした。

それとは逆に、去年、別に意図したわけではないのに偶然上手く行ったことを考えると、見守って、「自ずと然り」とやっていたように思います。自分の想定と違うこと、自分には好ましくないことが起こっても、なぜそうなるのか、相手や全体的な状況から考えて、「まあ、今はしょうがないか」と、今はこうでもそれは相手にも理由のあることで、将来はもっと上手く行くと相手を信じて前向きに考えていると、その考えを相手に伝えたのでも、約束したのでもないのに、なぜか相手は期待に応えてくれ、状況は期待を超えて好転しました。

また仕事でも、別に主体的な計画や意図は持たず、周囲の状況に合わせて「とりあえずやっとくか」と消極的に参加しただけで、何となく形になっていったものがいくつもありました。仕事には、主体性を持って自分で考えて自分でやるという一面もありますが、特に多くの人と一緒に仕事をしなければいけないときは、自分から「こうすべき」と主張してもあまり結果にはつながらないことが多く、注意して様子を見ていて必要とされた時に要求されたように参加する方が上手くいくようだと学びました。

今年は無心・虚心になって流れを見守りながら、そのとき自分が感じることに従ってまた虚心に働いて、自分や、自分の周囲のいろいろな可能性を拓いてゆけたらいいと思います。

«2008年11月・12月 天成塾・窈窕会合同勉強会感想